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<title>修復家の私考　</title>
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<description>絵画や美術品の修復活動を通じて、人々の創造物と対峙しながら考えたこと</description>
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<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2026/04/post-72c0ce.html">
<title>たとえ誰かにとって意味のないことでも</title>
<link>https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2026/04/post-72c0ce.html</link>
<description>若い頃教わった大切なこと。それは情報は発信してこそ価値が生まれるということだ。</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>私が修復家になろうと決心をした時期に、当時東京文化財研究所の研究員だった尾立和則さんに出会い、以後、彼にいろんなことをご教示いただいた。彼は私にとってもう一人の師である。その後、彼が運営をする『修復家の集い』という専門家のコミュニティに参加させていただき、1999年の年末末近く、日本ではまだインターネットの黎明期に、ウェブ上に小規模ながら現在でいうソーシャルネットワークサービスを立ち上げた際には、管理、運営者の一人として仲間に入れてもらった。</p>
<p>あれから30年あまりたってなお、私は今でも彼が私に言ってくれた一つの言葉を大切にしている。それは『誰かにとって意味のないと思われる情報も、誰かにとって有益なことがある』ということである。</p>
<p>この広い世界を見れば、さまざまな人が皆一緒に生きていて、インターネットテクノロジーが急速に進化した今では、たとえそれがヴァーチャルなものであっても、世界はより近く、小さくなったと思う。そこにはまた色々な考え、思いがあり、何かに対する多様な価値観ががあり、それがまた地域性や人種、社会を作り上げているのかと思うが、そう言った考え、思い、価値観が目の前に迫り、時に入り混じり、融合し、あるいは衝突さえする時代でもあるのかと思う。<br />かつてインターネットなどない時代にも、今のように高速ではないけれど、結構な物が、情報が行き交いをしていた。江戸時代に人気を博した浮世絵は、明治の頃になると廃れてしまい、なんと海外に輸出される陶磁器や漆器の包み紙や緩衝材、荷造り、梱包材として使い捨てされるようになった。しかし、『捨てるものあれば拾うものあり』とは誠によく言ったもので、それを目にしたヨーロッパの人々、とくに芸術に関わる人々の目に留まり、その東洋の、日本の類まれなる芸術性を再確認してくれたことは、現在日本に残る数少ない浮世絵を大切にするようになったことにつながっている。今もなお、『意味のなくなった』『価値のなくなった』物、情報が、この地球のどこかで、異なる世界、社会、人の間で再確認され、あらためて『意味』や『価値』が見出される。世界中で、高速に情報が行き交う今日、私たちはそんな『意味』『価値』の激しくも、目まぐるしいような再創造の場にいるのではないか。</p>
<p>私はこのコラムに、ひとりの開業修復家として、日々芸術作品や歴史的に貴重な資料に触れ、修復という施術をするという、誰もができることではない経験、その貴重な日々の中で思ったこと、考えたことを記してきた。私は駄文しか書けないし、私ごときの言動は誰の目にも止まらないかもしれないけれど、たいした価値はないと思われるかもしれないけれど、私の経験したことが何かのヒントやきっかけとなったり、ほんの少しでも、何かの役に立てれば幸甚である。<br />そして思うことがある。文化財を修復し、後世に残すと言う行為は、きっと誰かにとっては価値のないと思われる情報やその姿形こそを守り、残すとなのではないかと。</p>
<p>尾立さんはあの時、私にもう一こと言ってくれた。『情報は自分で抱えていては意味がない。発信しなさい。』と。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>保存修復</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2026-04-06T19:50:14+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-12bcd0.html">
<title>修復家つらいよ</title>
<link>https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2026/03/post-12bcd0.html</link>
<description>修復家の仕事は困難ばかり、経験をたくさん積んでもなお、解決し難い問題と立ち向かわなければならない。</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>私は長く『修復家』を標榜しているが、私たち日々修復家が行っていることは、人の創造物の延命であり、それを少しでも長く未来に向かって保てる様工夫をし、あるいは決して止むことない劣化の進行に抗い、今できうる最善の処置に努め、可能な限り遅滞させる処置を行うことである。人に例えるならば、少しでも健康に、長生きをさせると言うことに等しいかもしれない。人の命を預かる医師の皆様に対しては誠に烏滸がましいが、絵画や芸術品の医師であると名乗る者も少なからずいる。私たちも医師に負けず劣らず学習と訓練を積み、科学的に物事を捉えて、常に論理的に考えて対処を施していくから、そう名乗っている者がいても良いのかもしれない。たまにお客様から『絵を診るお医者様のようですね』と言われれば、私は少々気恥ずかしいが、信頼を得ること、リスペクトされることは嬉しく思う。</p>
<p>絵画や芸術品の修復というのは、人々の創造物である広く文化財の修復というのは、ある意味人の体を見る以上に、治療する以上に難しいこともある。それらは生命体ではないから、裂けたり、虫に喰われた痕は、技術を尽くし、何事もなかったのように見えなくするようなことはできても、人の傷の上に肌色の絆創膏を貼るようなもので（もちろん人は傷が癒えるけれど）、裂傷も虫穴も何か別なもので被覆しれたり、穴埋めることしかできないから、その実際は物理的にずっと残存している。そして、貼った絆創膏も全て劣化する。<br /><br />私たちの仕事を、別に保存修復という。私たちの主たる目的、目標はあくまで今目の前にある姿形を長らえさせることであるからだ。しかし、長らえさせることも実は容易ではない。芸術品、人の創造物の多くが、天然素材からできていることが多く、こういった物は外界の環境に反応しやすく、温度や湿度の影響で伸びたり縮んだりするから、いつかクタクタになる。光にあたり続ければ変色や褪色し、利用していれば汚れもつく。常に大切に扱おうとしていても、それを所有する者も管理する者も、取り扱いに長けたものばかりではないから、思わぬ事故が起きて、大きく損壊することもある。常に安定した環境に置くことも大きな費用が必要になるし、常に安全に保存することは難しい。<br />さらには、以前このコラムでも話したが、汚れや傷を纏い、劣化した状態を愛でる人もいるし、それらを歴史的な実証として高い価値を見出す人もいるから、汚損も容易に落とすことはできないし、損傷もいたずらに直すこともできない。『保存』と一口に言っても、どこをどう保存するか問題になる。<br />求められる『正しい在り方』を理解し、所有者や管理者にとってより良い『修復の着地点』を見つけることは一筋縄ではいかない。専門家として『正しい』と思う処置を彼らの希望に寄り添って擦り合わせることがまた難しい。</p>
<p> </p>
<p>これから修復家になろうとする若い人たちを脅かすつもりはないけれど、困難なことばかりのこの仕事、責任も大きく、とてもつらい仕事だと思う。でも、それを乗り越えることができたら、その達成感は大きいし、顧客が喜んでもらえたら、あなたは大きな幸せを感じることができるだろう。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>保存修復</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2026-03-31T21:23:44+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2026/01/post-1cf1dc.html">
<title>老化と新たな時間の創造</title>
<link>https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2026/01/post-1cf1dc.html</link>
<description>修復とは作品のとめどない劣化の経過、時間軸に新たな修復という劣化の経過、時間軸を加えることである。</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span>また新しい年がやってきた。午年というのは飛躍の年になるそうだから、きっとみなさんには素晴らしい一年でありますよう。</span></p>
<p><span>私たち人間と同じ様に、一枚の絵画はその制作が始まった時点で、いいやもっと言えば、そこに塗られた絵の具やキャンバスや画用紙が出来上がった瞬間から、そこにあるすべてのものが朽ち果てるまで老化を止めることはない。老化（劣化）は等しく絶対的だ。</span></p>
<p><span>私たちが作り出したものには、人間の様な再生機能はないから、傷ついて放っておけば治らない。私たち修復家の仕事は、その自然の掟とも言うべき、老化や怪我、病気に何らかの手を加え、その命を少しでも先送りにしようとする行為であり、自然に抗い、時の流れに逆らう行動である。</span></p>
<p><span>しかし、その行動の実際は、傷つき、失った部分に、例えば、歯科医が虫歯を削った後に金属や合成樹脂を埋めるような、見た目を整え、なんとか機能を維持できるようにするだけの対処療法（<span class="vA9HTb MDvRSc">病気</span><span class="vA9HTb MDvRSc">の</span><span class="vA9HTb MDvRSc">根本</span><span class="vA9HTb MDvRSc">原因</span><span class="vA9HTb MDvRSc">を</span><span class="vA9HTb MDvRSc">治す</span><span class="vA9HTb MDvRSc">の</span><span class="vA9HTb MDvRSc">では</span><span class="vA9HTb MDvRSc">なく</span><span class="vA9HTb MDvRSc">、</span><span class="vA9HTb MDvRSc">現れ</span><span class="vA9HTb MDvRSc">て</span><span class="vA9HTb MDvRSc">いる</span><span class="vA9HTb MDvRSc">痛み</span><span class="vA9HTb MDvRSc">・</span><span class="vA9HTb MDvRSc">発熱</span><span class="vA9HTb MDvRSc">・</span><span class="vA9HTb MDvRSc">咳</span><span class="vA9HTb MDvRSc">など</span><span class="vA9HTb MDvRSc">の</span><span class="vA9HTb MDvRSc">症状</span><span class="vA9HTb MDvRSc">を</span><span class="vA9HTb MDvRSc">和らげ</span><span class="vA9HTb MDvRSc">たり</span><span class="vA9HTb MDvRSc">、</span><span class="vA9HTb MDvRSc">一時</span><span class="vA9HTb MDvRSc">的</span><span class="vA9HTb MDvRSc">に</span><span class="vA9HTb MDvRSc">楽に</span><span class="vA9HTb MDvRSc">し</span><span class="vA9HTb MDvRSc">たり</span><span class="vA9HTb MDvRSc">する</span><span class="vA9HTb MDvRSc">治療</span><span class="vA9HTb MDvRSc">法</span> ）であり、そこに覆われた損傷は決してなくなることがない。<br /></span><span>そして、私たちが加えた処理が、そこに加えた物が、また新たな老化を始めるのである。</span><span>イタチごっことは言わないが、まるでタイムマシーンで異なる時空間に行って、帰ってきた時には二つの時の流れが生まれてしまうかの様に、私たちの仕事は</span>老化の掟を破って時の流れに逆らい、新たな時の流れを、老化の掟を加える仕事なのである。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>保存修復</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2026-01-03T19:36:40+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-8943d9.html">
<title>修復イメージの共有</title>
<link>https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/12/post-8943d9.html</link>
<description>歴史的に貴重な資料や重要な美術作品を修復するにあたっては、その所有者や管理者と修復によって生じる変化のイメージを共有することが大切だ。</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span>ここ数年は大学の付属施設や公共施設の仕事をすることが多くなった。こうした施設では近年、美術品や歴史資料の修復にあたっては、可能な限り現状の姿形を止め、なお処置後より長く利用できるようにすることが求められる。<br /></span><span>しかし、現状の維持といっても、修復というなんらかの処置をする限り、処置対象は少なからず変化をする。堆積した塵埃を取り除くだけで、なんとなく綺麗になるし、綺麗な水を使って洗浄処置をするとさらに綺麗になることもある。『綺麗になる』と多くの人は大抵喜んでくれるけれど、『綺麗になる』前の様子が大切と思っている人たちにとっては好ましくない変化となってしまう。<br /></span><span>骨董などという古い道具や書画を集めている人の中にも、多少の汚れや損壊は『景色』とか『風合い』などというような経年、時を経た証として評価をし、愛でる人がいる。</span></p>
<p><span>私は現代の作品も取り扱うことがあるが、製作後数百年の歳月を経ているものならば、どれだけ最善と思われる処置を施したところで、処置後長く状態の保持をするために所有者、管理者のそれなりの努力は必要不可欠となる。<br />経年により劣化が進み、損壊が生じた掛け軸や屏風の表装裂地、度重なる利用により擦り切れたような巻物の表紙なども作品本紙（作品本体、書画が描かれた画用紙や画布）とともに残して再利用したいという要求も増えてきたが、あまり劣化や損壊が進んでいると、たとえ再利用できたとしても、処置後の利用によりすぐに痛んでしまい、早々に再修復が必要になって、修復にかけた費用対価も低下するだろうし、せっかく修復処置をしても、処置前のように取り扱いが難しい状態が維持されることにもなる。 </span></p>
<p><span>個人でも公共施設でも、美術品や資料を持っていれば必ず展示や研究、学習に利用する。公共が管理をする資料、美術作品というのは、市民に広く利用されてこそ価値がある。だから当然、何度も手に取るだろうし、取り扱う者の中には経験豊富なものもいればそうでない者もいる。大学の施設などは、結構頻繁に取り扱いや管理の担当者が代わったりするから、それなりに取り扱い方が変わってくる。展示や収納の繰り返しも、さらに長距離の搬送となればなお事故の可能性は高まる。<br /></span><span>それならば、大切なものは箱にしまっておけば良いかといえば、そうでもない。もちろんそれでは利用できないし、とくに巻子や掛け軸など、収納時に細く巻いておくものは巻いたままにして長く放っておくと巻いた状態が残り、いわゆる『巻き癖』なる形状変化が生じ、それが経年を経て劣化をした紙や織物だと、展開時に折れたり、折れた箇所を放置しておくと亀裂が生じ、さらに裂傷へと症状が進んでゆくことが多い。この対策として『太巻き』『太巻き添え軸』というアタッチメントがあって、これを軸棒に挟んで巻くことで巻き径を大きくする方法があるが、デメリットとして収納箱が大きくなったり、取り扱いもそれなりに繁雑になるし、巻いた状態、その姿形が変わるので、それが伝統的でないとか、以前と違ってしまうことから利用を拒む者もいる。そういった無理や難題を解決するのがプロフェッショナルの仕事と心得てはいるが、誠に厄介である。</span></p>
<p><span>修復という作業、処置は、対象の十分な調査ができ、処置の方針が決まれば、あとは計画的に、けっこう坦々と作業を進めることができるのだけれど、修復のイメージ、少なからずも修復によって変化が生じることや現状を維持することの困難さについて、顧客とそのイメージを共有することがなかなか難しい。でも、その共有、顧客の希望とのすり合わせのようなものがとても大切であると私は考えている。</span></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>保存修復</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2025-12-13T19:32:29+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-6dae52.html">
<title>芸術の境界</title>
<link>https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-6dae52.html</link>
<description>芸術とそうでないものの境界はどこにあるのだろうか。</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span>1917年</span><span>、「ニューヨーク・アンデパンダン展」において、マルセル・デュシャンは『噴水（泉（男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした作品））』を出店し物議を醸した。既成の便器に誰ともわからぬサインをして出展したのである。</span></p>
<p><span>先日、久々に訪れたポーラ美術館では、ライアン・ガンダーの”ユー・コンプリート・ミー”という展覧会が開催されていて、会場には様々な言葉が記されたたくさんの黒いボールが展示ケースの中に陳列されていたり（各階のロビーには巨大なボールもあった）、会場一室の床いっぱいに子供が遊ぶブロックや小さなプラスティック製の人形、動物が所狭しと並べられていた。私は楽しく鑑賞したが、いったいこれを芸術と呼べるのかいささか疑問に思わなくもなかった。</span></p>
<p><span>私が思うに（理解するに）、デュシャンは芸術とそうでないものの境界について鑑賞者に問うたのだろう。『お前はこれを芸術と呼ぶのか』と。</span></p>
<p><span>インターネットの急速な発展は、プロの芸術家も、専門的な教育を受けていないアマチュア芸術家も、インターネットという同じ土台に立って自由に表現をし、発表できるようになった。今はコンピューターとネットにつなげる環境さえあれば、何でもかんでも発表し、表現ができるのだ。そんな中で、だからこそ、芸術とそうでないものを区別することが難しくなっているのではないかと思う。<br /></span><span>人は様々なものに価値を見出す力があり、私たちは皆その能力を備えているのだろう。価値を創造できるとも言って良いだろう。その力こそが芸術の源となる。でも実際には、芸術というのは、誰かがそれは芸術であると認めなければ、認められなければ芸術たり得ない。ではいったい、誰が認めれば芸術となるのだろうか。それは芸術ではないと言えるのだろうか。</span><span>あなたは、いったい誰が芸術と呼べば、それが芸術と確信できるのだろうか。それとも、それはあなた自身で見分けることができ、判断することができるのだろうか。ならば、その根拠はどこにあるのだろうか。</span></p>
<p><span>芸術とそうでない物の境界は何処？</span></p>
<p> </p>]]></content:encoded>


<dc:subject>文化・芸術</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2025-10-31T19:27:44+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-a29269.html">
<title>私の鑑賞の極意</title>
<link>https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-a29269.html</link>
<description>絵画の中には『これこれこういう風に鑑賞をしなさい』などとはどこにも書いていない。</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span>友人が藤田嗣治の展覧会に訪れたと連絡があった。私の知っている藤田嗣治の技法や彼の人生の有様を伝えると、『なーんだ、前もって聞いておければよかった』というから、絵画を鑑賞するということは情報を確認することではないよと伝えた。</span></p>
<p><span>いうまでもなく、絵画とは絵の具を使って行う表現である。そこに製作者の人生が反映していることもあろうが、その絵画を鑑賞するために、必ずしもその人の生い立ちや経歴を知る必要はない（もちろん、知りたいという気持ちも大切だと思うけれど）。展覧会へゆけば、そんなことも細かく丁寧に解説していることもあるけれど、絵画を鑑賞するということは、まずそれ自体と対峙をして、見て（できたら舐め回すように）、鑑賞者自らの心象に立ち上がってくるイメージや言葉と向き合うことがとても大切なことなのではないかと私は思う。そんなひとときを楽しんでほしい。</span></p>
<p><span>私は修復家であり、傷んだ絵画を治療し、少しでも長く保てるようにするために、絵画の構造やそこに使われている画材の性質をそれなりに知っているし、場合によってはその製作者の経歴や独特の癖や特徴も少なからず知っていることもある。それは私たちのような専門家や、研究者には必要なことであるが、一般に、絵画を鑑賞するために、その全てを知る必要はないと思う。美術館や博物館に足を運ぶ人の中には、売店で売っているカタログ、解説集を読みながら、あるいは絵画の解説をしてくれるレコーダー片手にヘッドホンをしながら、そういった情報を確認するように鑑賞をしている人が結構いるようだけれど、私はそれじゃあもったいないと思う。実にもったいない。</span></p>
<p><span>一枚の絵画をしっかりと、隅から隅までくまなく見てみよう。その絵画の中には『これこれこういう風に鑑賞をしなさい』などとはどこにも書いていない。書いてあるのはせいぜい作者のサインぐらいである。</span></p>
<p><span>大好きな音楽を鼻歌交じりで聞くように、そんな風にも気楽に自由に絵画を、芸術を楽しんでほしい。時に自分が鑑賞することを拒絶するような、そんな風に思う絵画、芸術に出会ったら、その拒絶が一体どこからやって来て、どんな風に感じたのか考えることも自らの鑑賞能力を育てる糧になるだろう。</span></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>文化・芸術</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2025-10-09T20:27:18+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-fec068.html">
<title>画用紙は波打ち変形する</title>
<link>https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/10/post-fec068.html</link>
<description>どんな紙も微妙な湿度の変化によって伸縮し、変形する</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span>版画や素描（画用紙）の波打ち、皺や折れなど変形を修正してほしいと相談を持ち込んでくる人は多い。先日はある文具店（額を扱っている）から問い合わせがあり、額装のため預かった版画作品が預かり先の店内で保管しているうちに波打ち変形したと顧客からクレームがあったという。顧客が言うには、自分の家で展示している際には変形は生じておらず、綺麗に平らな状態であったそうで、店舗の空調管理はどうなっているのかと指摘されたようだ。<br /></span><span>顧客の家は一体どんなに高度な空調設備を持っているのだろう。はっきり言おう。美術館でさえ、高級外車が数台買えるような高額の特別な展示ケースの中でもなければ、一日24時間同じ温度、湿度を管理することはできないのだ。そんな環境下に置けば、版画や素描、水彩画などを描いた画用紙も安定をしているかもしれないけれど、そうでなければ、どんな紙でもちょっとした温度の変化や湿度の変化で不規則に波打ったり、変形したりする。そもそも家から持ち出した所有者は、その店までの道中の環境をいかに保持していたのだろうか。この夏、外は大変に暑かった。<br /><br /></span><span>画用紙、紙は多孔質の高分子でできており、もともと弱い水素結合で成り立っているから、周りの環境の微妙な変化で水分を吸収し、また蒸発させる。これは紙本来の性質である。乾燥すると画用紙がわずかに持っていた水分が排水されて収縮し、湿度が上がれば水分を吸収して膨張する。そして、どんな紙であれ、紙の繊維の分布、堆積状態にはムラがあるから、紙の伸縮は常に不均一、不規則である。さらに言えば、版画も素描も、描いた後では画用紙の構造がまた複雑に変化をする。とくに絵の具をたっぷりと塗ったところ（吸い込んだところ）や全く塗っていないような余白があると、紙の伸縮に部分的な差異が生じる。<br /></span><span>かの作品は額装をされていて、新しい額へと改装を依頼されたと聞く。もとあった額装の仕方、作品の固定方法も見せてもらったが、作品は額の内部で接着テープを使って6箇所（左右の四隅、長編の中央部分）を固定されており、なおかつ作品前に置かれたペーパーマットにより作品の周囲のみ圧迫されており、ペーパーマットの開口部と覆われた部分では変形の状態が異なっていた。作品の固定方法、額装にも問題があったのは明らかだと思う。</span></p>
<p><span>版画や素描のコレクターの中には、画用紙、紙の性質をよく理解し、多少の変形は自然であると受け入れている。美術館や博物館の学芸員も、この紙の性質を熟知しているものであれば受け入れる。だから版画作品や素描のように一枚の薄い画用紙に描かれた作品は、額装の際にはしっかり固定をすることなく、作品が額の中でズレたり外れたりしないように必要かつ最小限の固定はするけれど、ある程度自由に伸縮、変形ができるように装幀をするのである。</span><span></span></p>
<p><span>もう一度言おう。画用紙は波打ち、変形する。</span></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>保存修復</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2025-10-07T18:24:08+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-e875e0.html">
<title>タイパとコスパの彼岸</title>
<link>https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-e875e0.html</link>
<description>私たちのような文化財を保護し、延命させる仕事を生業にしている者は、タイパやコスパといった世界の対極、対岸にいるように思う</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span>近頃タイパとかコスパなどという言葉をよく聞く。時間あたりの仕事の効率とか金額あたりの効果をいうのだろうけれど、私の生業とする修復家という仕事は、時間あたりの仕事の効率を考えはするが、仕上がりが良くなるのであれば、許される限り時間をかけて丁寧に仕事を進めるし、いたずらに作業スピードを追い求めるのではなく、まずは一つ一つの仕事を確実にこなしてゆくことで、結果的に修復作業完了までの時間が短くなれば良いと思う。私が駆け出しの頃、ある先輩は『この仕事は急がば回れだよ』と教えてくれた。私は今でもこの言葉を肝に命じている。<br /></span><span>一方では私たちの使う材料や素材は天然由来のものが多く、手のかかる伝統的な工法により生産、制作されるものが多い。さらにそれらは広く一般に使用されるものではなく、需要も少ないものだから、より満足のゆく良い材料を選べば、それなりに高価になる。<br />いずれにせよ、私たちの仕事ではタイパやコスパを考えることはあっても、それが優先されることはない。</span><span></span></p>
<p><span>私のような修復家が使う材料を制作、生産する人もとても少なくなってきた。手作業で、時に重労働も要する手漉き和紙のなどは、素材となるコウゾの栽培さえ行う人が減少し、生産量も激減していて、さらに昨今の環境の変化、気候の温暖化により、和紙作りに欠かせないネリと呼ばれる粘液を採取する草木の入手も困難になってきていると聞いている。</span></p>
<p><span>本年度は江戸時代の初期に描かれた屏風絵（六曲一双/全12画面）の修復を行なっているが、屏風絵やふすま絵の修復の際に必要となる下地（構造材=格子状に組んだ障子の骨組みのような材料）も、もはや作れる人は都内では数名しかおらず、しかも皆高齢で、その需要の少なさからも後継を育てることが難しいようだ。下地の材料となる杉材、縁に使うヒノキやヒバ材も、近年山林を管理する者が減少していることもあってか、良質な材料が少ないと聞く。</span></p>
<p><span>私たち修復家も、私たちが必要とする材料の生産者も、タイパとかコスパなどといった世界とは対極の世界で生きているように思う。そんな人々が人類の偉大な創造物の保存、延命をさせ、未来の人々へ手渡すための大きな支えとなっている。</span></p>
<p><span>古来より伝わる芸術作品や歴史資料、広く文化財の修復や保存にたずさわる仕事と、この仕事にまつわる人々の努力や献身を、少しでも多くの人々に認知、理解してもらいたい。</span></p>
<p> </p>
<p><span>この夏も猛暑が続いている。今年は11月くらいまで平年を上回る高温の状態が続くらしい。</span></p>
<p><span>皆様にはどうぞご自愛を。</span></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>保存修復</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2025-08-21T19:25:43+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/07/post-4bb7e6.html">
<title>未知との遭遇</title>
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<description>私たちそれぞれの言葉には限りがあり、だからその限りを超えるため、自らの中に新たな言葉を得るために、創り出すために一冊の本を読み、一枚の絵画を観ることなの大切さかと思う</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span>私は20代の頃から40代にかけて、毎月数冊の本を欠かさず読んでいた。文化財の保存や修復に関する書籍などなかなか見当たらなかった頃（現在でも日本語で書かれた物、翻訳されたもの含めて極めて少ない）、私の仕事に関係がありそうな本、役立ちそうな本を片っ端から読んだ。中学生や高校生向けの化学の本、工芸品や絵画の技法書は、直接的に役立つ情報も多く得られたかと思う。これとは別に、なぜか当時たくさん読んでいたのが文化人類学や社会学、現代思想、哲学の本で、たいてい読みにくかったり、難解であったりもしたけれど、色々と思考を巡らせたり、整えたりする機会を与えてくれた。そして、何よりこの数々の読書経験は、若く経験がないゆえに、狭い世界で硬直しがちだった私のアタマを柔らかくほぐしてくれ、自身の精神世界を広げていってくれた様に思う。</span></p>
<p><span>とかく私たちは見知らぬ言葉や文章に違和感を感じる。読みにくさを感じ、理解し難いと敬遠し、拒絶する。でも、この違和感こそが、自分が今まで知らなかった、味わうこともなかった世界の存在を教えてくれているのだと思う。グローバリゼイション、ダイバシティー、、、。IT技術、インターネットの進化によって、遥か遠方に生活している者同士が自由に情報交換ができる様になり、輸送の発展にともない、人も物も高速で移動することができる様になったこの世界は、今やずいぶんと小さくなったかの様であるが、今も私たちの外側には知らない世界が広がっている。<br />一冊の本を手にとって読むということは、直接的ではないとしても、言葉、文章を通じて、今まで知らなかった人の経験や思考に触れることであり、新たな経験をする事である。</span></p>
<p><span>そして、一枚の絵画を鑑賞するということも、一冊の本以上に貴重な体験をすることができるかもしれない。一枚の絵画と対峙し、鑑賞をおこなうということは、それは読書と同じ様に、ある芸術家の思考や経験に触れることでもあると思う。ただし、言うまでもなく、それは<strong>言葉のない世界</strong>を観ることであり、まさに既知（言葉）の外にある未知との遭遇である。美術館や博物館へ行けば、作品の下に解説が書かれていることもあるけれど、実際に絵画の上に書かれているのは作者のサインぐらい。絵画は読むものではないのだ。絵画は鑑賞するものであり、鑑賞とは観て感じ、考え、自分の中に湧き上がる感情や言葉に目を向け、それを認識し、自分の内に想起された感想、解釈をつくりだすものである。<br /></span></p>
<p><span>人間は生まれた時から言葉の網に捉えられると言った言語学者がいる。生後しばらくすると、人は全ての思考を言葉を使って行う。私たちはこの世界の物事をカメラの様には捉えられない。私たち人間には<strong>ただ『読む』</strong>ことも<strong>ただ『観る』</strong>こともできない。読書も絵画の鑑賞も、ただ目に捉えることだけで終えることは出来ず、今読んだ、観た情報を無意識のうちに自らの意識の中に落とし込んで再認識し、私たちそれぞれの中にある限られた言葉を使って、理解とか解釈といった再創造を自身に迫るのである。安易な言葉で片付けようとする者もいるだろう。関心がなければ言葉にもせず、一瞥して素通りする者もいるだろうか。自分の経験、思考からは理解できない、解釈に苦しむ一冊の本、一枚の絵画に理解しがたい苛立ちを感じたり、その不快や不安から逃げ出したくなるけれど、これこそが未知の世界がそこにあるのだと言う知らせである。この苛立ち、不快や不安は無意識に、自らの世界の限りや足りなさを突きつけているのだ。</span><span></span></p>
<p><span>私たちそれぞれの言葉（思考）には限りがあり、だからその限りを超えるため、自らの中に新たな言葉を得るために、創り出すために一冊の本を読み、一枚の絵画を観ることに意味があり、価値がある。そこで得た経験は、きっと自らの世界（=言葉、思考の）の網を破り、まだ見知らぬその外側の世界へと私たちを導いてくれるだろう。<br />ちょっと難解な一冊に触れること、言葉にならない芸術作品に触れることは、時に不安や苦痛を伴うこともあるかもしれない。でも、この二つは、少なくとも実際に私たちを傷つけたり、痛めつけたりしないのだから、暫し我慢もして対峙してみよう。嫌なら途中で投げ出したって良い。かく言う私も途中で投げてほったらかしにしていた本があるし、関心のない（気持ちが動かされない）芸術世界もある。でもいつかまた対峙しよう。</span></p>
<p><span>最初はわかりやすい、興味のあるジャンル、好きな作品でもいい。タイパやコスパなどと言った経済効率ばかり求められる今だからこそ、まだ見知らぬ一冊の本に、一枚の絵画にゆっくりと時間をかけて向き合いたい。</span></p>
<p> </p>
<p><span>暑い夏は涼しい図書館で、美術館や博物館で、未知の世界に触れるのも良いかと思う。</span></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>文化・芸術</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2025-07-21T19:26:40+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/07/post-4b2781.html">
<title>文化財を守り残すための原動力</title>
<link>https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2025/07/post-4b2781.html</link>
<description>一枚の絵画の存在が危ぶまれる時、修復が必要となった時には、それを守ろう、残そうとする人の再創造、再認識が必要となる。</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><span>人は一枚の絵画を前にして、常に解釈に挑み、理解しようとする。きっとそうさせる、そうせざるを得なくしてしまう芸術作品なのだと私は思う。そして、芸術作品は製作者の元を離れ、また誰かの目にさらされ、製作者の意図を超えて様々な解釈がされ、様々な意味や価値が与えられてゆく、、、。</span></p>
<p><span><strong>『個人の意識のうちで再創造や再認識がされていない限りは、芸術作品はただ潜在的な意味においてのみ芸術作品であるに過ぎない</strong>』</span><span>『修復の理論』チェーザー・レブランディ<br /></span><span><br /></span><span>『修復の理論』を著したチェザーレ・ブランディは、芸術作品は個人の意識のうちで再創造や再認識がされて芸術作品となり得ると言っている。言い換えるならば、芸術作品は私たち人間の意識の中で完成するということであり、そうであるとすれば、それは人の数だけつくられるということになる。</span></p>
<p><span>人は一枚の絵画に新たなイメージを与え、その作品が本来持っていた文脈に影響を及ぼしたり、存在の意味すら変えてしまうこともある。昼間の風景を描いていたことがわかっているレンブラントの<strong>夜</strong>警、信仰の対象であった宗教絵画や仏像が<strong>美術品</strong>としてガラスケースに収められて鑑賞されるなど、公共施設の中でもそんな再創造や再認識が認められているのかと思う。</span><span><br /></span><span>本来はその作品を守るため、延命させるはずの修復という行為もまた、その作品に元あった何かを取り除いたり、元はなかった何かを加えることで物理的に作品を変化させるから、処置によっては作品の姿形、見た目にも変化を与え、後の再想像、再認識に影響を及ぼすだろう。ヨーロッパでは大作の修復がなされるたびに、いろいろな批判が上がってくるようであるが、しかるべき専門家に仕事をさせずに、破壊や修復の失敗を招いたような例は除いて、修復という行為は必ず、施主や顧客の要望に応じて行われるものであり、それが個人であれ、博物館や美術館などの公共の施設であれ、あるいは修復家であれ、誰かがいま再創造、再認識した価値、そこに望まれるあるべき姿形の回復や保護、延命を追求するものである。</span><span><br /><br /></span><span>私たちは各々に一枚の絵画に多様な意味や価値を見出すこともできるが、一方では狭義で自分勝手なイメージを作り出し、その存在の意味、あるべき姿を追求し、特定しようとする。実は、この人の思考、運動こそがブランディの言った再創造であり再認識の正体なのではないだろうか。私たちは時の流れの中で、その経験の中で常に変化をしながら、この再創造、再認識を繰り返し、一枚の絵画に今日また新しいあるべき姿形を求め、与えててゆく、、、。</span><span><br /></span><span>そしていつかまた一枚の絵画の存在が危ぶまれる時、修復が必要となった時には、それを守ろう、残そうとする人の再創造、再認識が必要となる。それがあって一枚の絵画に保護と延命のチャンスが与えられ、さらに未来の再創造、再認識の可能性をもたらしてくれる。今日またおこなわれる人々の再創造、再認識が、広義な意味での文化財を守り、未来に残す原動力ともなっているのだと私は思う。</span></p>
<p><span><strong>『真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ。』</strong></span>　マルセル・プルースト</p>
<p> </p>]]></content:encoded>


<dc:subject>保存修復</dc:subject>

<dc:creator>ニードルアイ</dc:creator>
<dc:date>2025-07-17T16:22:23+09:00</dc:date>
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