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保存修復

2023年5月14日 (日)

絵画の擬人化

私たち人間は、何でもかんでも擬人化するのが得意な様である。私は総合芸術として、映画を見るのが大好きだが、SFや怪奇現象、超常現象を扱った様な作品に登場する宇宙人や幽霊、悪魔も神様も、大抵人の形をしているか、人の要素を持っている。かつて、バールーフ・デ・スピノザと言う人は、神は無限であり、人間の様に身体的な制限を持つものではない(だから擬人化できない)と言ったそうであるが、逆に言えば、私たちの精神やそこから湧き上がってくるイメージは、常にこの身体に制限されているということだろう。

最近、ちょっと読み直ししようと思っているチェザーレ・ブランディ、『修復の理論』の中で、彼は一枚の絵画を生きた人間の様にして捉えている。そしてこの著書の中には、『生』という文字が現れる。彼は、絵画が『生』きているという。そしてそこには、死ぬまで、朽ち果てるまでの道のりが、持って生まれた人の人生の様な時の流れがあるのだと説き、その流れを止めたり、時の流れの中で変化、劣化してゆく、人で言うならば老いてゆくその現象を、生きてきた歴史、その証として、大切に守りなさいと言っている。

私はもともと髪の色が薄かった(こげ茶~栗色くらい)のだが、ここ何年かですっかりグレーになった。とくに染めようなどと思ったこともないが、白髪を嫌がって染める者も結構いるし、若作りをしたり、体を鍛え、美容に勤しんで、いつまでも元気で、綺麗にと、加齢に抗おうとする者は少なくないのだと思う。
今や貴重な絵画や彫刻、美術工芸品は、お金さえ払えば厳密で安全な保存空間を維持できるケースを手に入れて、長い時間保存することもできる様になっている。光に当てない様に暗所に入れれば、光による劣化は抑制あるいは遅滞され、冷所に置けば物質が変化するスピードも緩ませることができるかもしれない。

ここでもう一度、高級(結構な車が買えます)、高性能ケースに入れる一枚の絵画を擬人化してみよう。『あなたはこれから、外界の大気から遮断され、暗くて、少し寒いケースの中に密封されます。そうすればきっとさらに長生きできるかもしれません、、、。』どうだろう。私ならば、こんなことは勘弁してほしい。生きるということは、持って生まれた能力を使えてこそ、その価値が見出せるものだろう。だから、絵画を人の目に触れない暗所に閉じ込めてしまえば、その価値はまったく活かされない。絵画は人の目に触れて、人の精神を震わせてこそ、その存在の意味と価値が確かになるはずである。それは私たち人間のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)= 自分らしい充実した人生を送ることこそ大切にしなくてはならぬように、一枚の絵画のQOLを考え、年老いた絵画に、汚れ、疲弊し、傷ついた作品に、その美しさの保持と寿命の猶予を与え、より多くの未来の人々に出会う機会を与え、その価値を伝えるための手助けをすることが、私修復家の仕事なのだと思う。

 

2023年4月30日 (日)

保存修復の秘密

東京国立近代美術館で開催されている『重要文化財の秘密』展で開催されたトークイベントに参加をしてきた。登壇されたのは絵画修復家の土師広さんと修復家であり、保存修復と修復理論を研究されている田口かおるさん。今回このイベントの中でとても印象的だったのは、イベント後の質疑応答で、美術館スタッフ、司会者の『修復にクリエイティブな要素はあるのか」問いかけであった。これに対して、土師さんは『自分の意思を出さないように、意図を加えないようにしている』と答えられ、田口さんは『ありうる』とお答えになっている。

私たち修復家は、また私たちの先達らはこれまで、修復を依頼される作品と向き合うたびに、いつも深く思考を巡らし、きっとその知識と経験、技術を駆使して、当時最善と思われた処置をしてきたのだと思う。修復の歴史を紐解くと、そこには、現在では許されない様々な問題を添加してしまったものもあるし、疑問視される処置も数多あるようであるが、たとえどんな形であれ、その行為があったからこそ、今ここにその作品が存在しているという事実もあるだろう。
修復という行為に絶対とか、完全とか、確かといったものはない。今、その道に長けた専門家が安全と思い、ベター(ベストはないから)な選択をしていても、科学技術が急速に進歩している現代では、遅かれ早かれ『これはダメだな~』などと言われてしまうかもしれない。そしてどんなに手当てをしても、生物のように再生機能のない絵画や美術作品は劣化をやめない。私たちが修復処置により加えた何まもまた劣化する。
私はこのコラムの中で、祐松堂のインターネットサイトの中で繰り返し、『修復とは何かを取り除いたり加えたりする行為である』と言ってきたが、そこには必ずクライアント要望なり、修復家の意思が反映しており、今対峙する作品に現在の私たちの思いを付帯(追加)させる行為であることに他ならないのだと思う。それは、たとえば現在の人々が往古の作品に、過去にはなかった新しい価値を見出すように(わかりやすく言えば、古びた茶碗に、セピア色になった写真、黄変したニスをまとった絵画を美しいとか素敵だとか思うこと)、現在の保存修復という概念、新しい価値を付帯させること、放っておけばいつか必ず朽ち果ててゆくそれを、なんとかして長く持たせるよとする行動自体が、とてもクリエイティブであるのだと私は思う。
私は修復を依頼されても、作品の状態やクライアントの諸状況を見るにあたって処置をお断りすることがある。修復家の土師さんは修復家は『断る選択肢を持っている』と言っておられたが、しかし、『処置しない』という行為もまた、今、私たちが目の前に認識した何か(ある価値)に手を入れず、そのままにしたいという意思や目論みが与えられることになるだろう。

私たち人間は常に現在を生きていて、今を創造しているのであり、保存修復という行為もまた、人の営為である限りクリエイティブなのだろう思うのである。何かをするにせよ、しないにせよ、そうやって作品をまた明日に生かしてゆくのだろうと思う。
そしてまた私たちの元に、延命や修復を求めて作品が運び込まれてくる、、、。

東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密
2023年3月17日金曜日~5月14日日曜日
<https://www.momat.go.jp>

 

2023年3月10日 (金)

私たちはなぜ修復をするのか

絵画修復家の土師宏さんは、Newsletter of The National Museum of Modern Art, Tokyo [Apr.-Jun. 2019]の中で、岸田劉生作品の修復を通して、次のように記している。『劣化を促進させる症状は処置の対象とする一方で、自然な変化にはなるべく手を加えず、枠品が歴史を内包している存在であることを受け入れる。その上で、オリジナルを妨げ、画家の意図ではないと思われる要素を検討し、可能な範囲で注意深く取り除く、そして修復した痕跡が姿を隠し、作品が何事もなかったように展示されたとき、100年前の表現と現在の鑑賞者は、スムーズにつながることができるのではないか』と。
彼の表現は、まさに私たち修復家の仕事を的確に説明したものであると私は思う。そして私は、彼の記した中で最も重要と思っているのが『100年前の表現と現在の鑑賞者は、スムーズにつながることができる』ということである。きっと土師さんも、対峙する絵画の向こうにいる、人と社会をしっかりと認識されているのだろう。
『なぜ修復をするのか』といえば、それは、私たち以外の誰かが修復を望んでいるからに他ない。私たちは確かに、絵画や彫刻に代表される美術品という物を修理する方法と技術に長けた専門家ではあるが、対峙する物にこそ最大の神経と知識、技術、体力を注ぐことこそが使命ではあるが、それあくまで、この営為を評価し、求めて来る人と社会があってこそ、はじめて業務としても成り立つのだ。
修復家が対峙する絵画や版画、彫刻、工芸品などの芸術作品は皆、遥かな歳月を経て、様々な人の手を経て存在している。そしてその過程の中で、美的価値、歴史的な価値はもちろん。多くの人々の関心を呼ぶ市場価値もまとわりついている。人と社会においては、この価値が見出せるからこそ、その物が大切に守られてゆく。そして、その価値が脅かされそうになった時、危うくなった時に(そう思われた時に)、その作品は私たちのところへ運び込まれる。人々にとって最も大切なのは、土師さんの言葉を借りれば、この『価値』にもまたスムーズにアクセスでき、認識できる状態なのだ。

修復家にとっては、今目の前に差し出された作品の現状を出来る限り永らえさせることが最も重要な目標、目的であることに異論を唱える者はないかと思うが、『修復をしてほしい』と望まれる作品には必ず、少し控えめに言って大抵、何かを取り除いたり何かを加えるという処置が必要となるものであり、このことが修復家を悩ませる。画布や画用紙が欠けたところを何かで補うことも、絵画の上で変色したニスを取り除くことも、欠けた描線や色面を補うことも、常にオリジナリティーを犯し、抵触する可能性がある。科学的には経年劣化により変色(変質)したニスを美しいと思い、その作品の一部をなすものだと考える人もいるし、画用紙や画布、描画の欠損さえも、その作品の経てきた歴史の一部と考えることもできるからだ。
私たち修復家は、他の誰に勝るとも劣らず、修復対象となる物の価値を理解しうるだろう。だからこそ、製作者以外の何人たりとも、製作者が選び、使用したものは取り除いてはならないし、それ以外は加えるべきではないと考える。その作品が時の経過により自然に劣化した状態も、史実として捉え、大切にしようと考える。しかし、その一方で、問題と思われる何かを取り除き、必要と思われる何かを加える修復という行為が、人と社会から求められて来た。人々が見出した価値を永らえさせるために、それを取り戻そうとする度に、善かれ悪しかれ数多の芸術作品に手が入れられ、今私たちの目の前に存在している事実もある。
私たち修復家は、専門家として人と社会から求められ、望まれる修復に対して答えてゆかなければならない。そして、そのために与えられた作品に生じた問題に真摯に向き合い、知識と技術を駆使して、その時の最善を尽くし、多くの問題、苦難を乗り越えて行かねばならないし、その弛まぬ努力があって、私たちの行為の意味も価値もまた生まれるのだと、私は思う今日この頃である。

2022年11月10日 (木)

あらためてパティナという古色を考えてみる

『修復は、芸術作品の潜在的な統一性を回復することを目的とする。ただし、あくまでも芸術作品の経年の痕跡を消すことなく、また芸術的な偽りや歴史的な捏造を犯すことなく、芸術作品の潜在的な統一性の回復が可能である場合に限られる。』(チェーザレ・ブランディ:修復の理論)

私は少し前にピカソの版画作品を修復して、さらにレンブラントの名作である『夜警』を模写して、イタリアの修復家達が唱えるパティナという概念に思考を巡らせた。
パティナというのは、日本語では『古色』と訳されることが多いと思うが、古色と言うのを科学的に追求してゆくと、それは例えば変色とか退色といった劣化、さらに言い換えることができるならば悪化ということができるかもしれない。先に修復したピカソの版画作品は、画用紙が含む絵の具やインクの定着剤(硫酸バンド=経年により硫酸を生成して紙繊維を痛める)やリグニンという物質(木材を形成する重要な物質であるが、光を浴びることで褐色化する。機械的に樹木を粉砕して作られる木材パルプで作られる画用紙はこのリグニンが多く含まれる)の劣化、変質によって、経年により褐色化、暗色化していた。さらに、この作品は額装されていたが、額装材として作品の背面に直接当てられていた段ボール紙の劣化により色素などが転移し、表面は暗い茶褐色に変色し、背面は段ボール紙の凹凸が反映して縞模様の痕が裏面全体についていた。
この版画の所有者は、画用紙が暗い色に変色してしまったことをとても残念に思って、元あったように画用紙の白色性を取り戻したいと望んでおり、私はその要望に応えるべくアルカリ化した純水や漂白効果のある薬剤を使用して、画用紙の白色性をなんとか取り戻した。

紙を水に付けて洗浄したり、漂白したりすることには大きなリスクがある。どんな紙であれ、水につければ膨潤するし、処置後にサイズが変化する可能性もある。濡れた紙はとてもデリケートで、繊維の結合が弱く、もろくなり、手で触れることも容易でなくなる。変色した紙は洗浄すれば劣化や変質の結果として生じた変色は改善されることが多いが、それを『芸術作品の経年の痕跡 』とするならば、それは消失することになる。この修復処置法は後戻りができない不可逆的な処置であり、様々な絵画修復方法、処置法の中でも、とても難しいものであると私は常々認識している。
私は今回も事前に所有者に『古色(パティナ)は無くなります』と話をして納得をいただいてはいるし、修復結果にもご満足をいただき、喜んでいただけたことは何よりであると思ってはいる。

今年2022年は私にとって厳しい年となり、仕事が激減した。ならば他の仕事でもアルバイトでもすればいいとお叱りを受けるかもしれないが、勉強になると思って、この暇な時間にレンブラントの名作である『夜警』を模写した。けれどこの作品、本来の適切な名称は『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊』というそうで、この作品はまた、夜を描いたものではない。『夜警』と呼ばれるようになったのがいつの頃かは知らないが、塗布されたニスが経年により変色、暗色化して、まるで夜のような印象となったのがその原因だという。この作品は20世紀に入って2回のニスの除去処置が行われ、明るさが増して昼に描かれたことが明らかになった。しかし、先述のブランディの言葉によればまた、作品が持っていた『経年の痕跡を消し去った』事になる。ブランディならば、ちょっとニスを残して『夕警』にしたろうか。

ブランディはまた、『古色が取り除かれると物質の現存(絵の具、画材の現状と言って良いだろうか)が目立ちすぎ、正しく鑑賞されることを邪魔する』とまで言っているが、私にはこの考え方が科学的なものではなく、ブランディ個人の、美的な価値観に依拠しているものと思われてならない。いったい、正しい鑑賞とはどういうことなのだろうか?パティナとはなんなのであろうか。私が思うにブランディの言う(考えている)パティナは、どうやら、絵画の構成要素である木枠や画布、絵の具やニスの物性を示しているのではないように思う。彼が科学者であるならば、それが経年により劣化し、変質をすることも理解していたはずであろうし、それを残せと言うのならば、それは劣化、変質、悪化したものに価値を見出していたからにほかない。彼が言う『正しい』鑑賞というのも、その劣化、変質、悪化したものを受け入れることが大切なのだと説いているのだろう。
それは、本来ならば科学的に作品にとってマイナスな要素としか考えられない現象をも包括して守るべきだという、劣化の結果として古色をまとった絵画を、例えば美しいと思ったり、そこに歴史的な価値を見出すといったような、ある意味、少し情緒的な感情、そこからつくられる価値観であり、例えば、古びた茶碗を愛でたり、セピア色になった古い写真に過去の思いを寄せるノスタルジーのようなものと近しいものがあるのではないだろうか。それはまた、とてもパーソナルな価値観であり、人間の自然で健康的な思考のあり方であろうとも思うのだけれど、ブランディの価値観は、実際に介入(なんらかの実処置、施術)こそしていないし、捏造とはならぬまでも、絵画作品に新しい価値を与え、その意味合いを変化させる可能性もあるのではないだろうか。

ブランディの修復理論は、ロマンティックに思えてくるのは私だけであろうか。
もう少し思考をめぐらせよう。

 

 

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修復後と修復前。およそ元の画用紙の白さを取り戻した版画と暗褐色に変質した版画。皆さんはどちらがお好みであろうか。

2022年10月13日 (木)

額装の心得 その1. ーガラスは作品に密着させないー

ポスターや素描画、版画作品など、一枚の紙に印刷された資料や描かれた絵画は、額装されて鑑賞利用されることが多いかと思う。ポスターや版画の額は、太い額縁や華美な装飾のあるものは好まれない傾向があり、額縁 を細くして、額全体を薄手に仕上げることが多い。大切な作品であれば、*ブックマット装幀をして額装する方法もあるが、鑑賞性の問題から、作品の周囲にマットを取り付けることを嫌われる場合もある。いわゆる直縁【じかぶち】と額屋さんが呼ぶ、作品の周囲にマットや*ライナーを介さず、直接縁を取り付けた額である。
直縁にしたり、額全体を薄く仕立てようとすると、自ずと資料や作品を固定する方法も限られることが多く、装幀が難しくなる。一般の額メーカーや額を販売している画材店では、複雑な施工も難しいためか、稀に、額の最前面に装着したガラスに作品の画面を密着する様にして収め、その背面からは段ボール紙やスチレンボードなど、ある程度クッションになる様なものを挟んでのち、ベニヤ板などで裏蓋をして押さえ込む様なセット方法がとられるが、この額装方法が、後日重大な作品の破壊原因となる。

一枚の紙に描かれた素描、紙に印刷されたポスターも版画作品も、外界の温度、湿度の変化によって、わずかな伸縮を繰り返す。この時、すべての紙は不規則に波打ったり、引き吊れ、凹凸が生じ、凸状になった部分はよりガラスに強く押し当てられる様になる。さらに、季節によって、時間によって温度変化が大きくなる一般の家庭内では、額の内部温度の変化も防ぐことは難しいから、とくにこれから寒い時期に入って、室内の温度を急激にあげると、場合によっては壁にかけてあった額の内部に結露が生じ、これが原因となってカビが発生することもあり、また作品への被害が生じる。
作品をガラスに密着させ、ガラスに押さえつける様な額装をすると、湿度の伸縮による紙の変形を多少抑えることは可能かもしれないが、絵の具にはもともと接着成分が含まれているし、経年により劣化、変質することにより、あるいは先述の結露が引き金となり、描画したイメージの一部や紙自体が接着してしまうことがある。こんな状態になったら、症状が軽微であるうちに改装をすれば良いのだけれど、それは案外気がつかぬうちに発生、悪化し、気が付いた時には取り返しがつかない状態となっている。

額は見た目だけではなく、安全な材料を選び、より良いセット方法により、作品を保護するケースとしての役割を持たせることもできるが、そうでなければ悪い環境に作品を閉じ込める事になる。まずは、『ガラスは作品に密着させない』そう覚えておいてほしい。

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ピカソの版画作品が密着していたガラスの内側。図像がうっすらとガラスに転移していた。

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ガラスに貼り付いてしまった古文書。文書の真ん中あたりが分離してしまった。

 

*ブックマット装幀<https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-5056.html>

*ライナー: 表面に麻布やベルベットなどを貼って装飾した細い縁、額縁と作品の間に装着する縁

*ガラスに注意https://consthink.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-1cb2.html>


2022年2月24日 (木)

スキーと修復の関係?

絵画や歴史資料の修復技術を学ぶ方法は、机上での学習も必要であるが、実際に物に触れる所作法を会得するためには、まずは指導者の一挙手一投足を観察し、そのイメージを頭の中に焼き付けることから始まり、それを自らの体で再現することが必要となる。再現は一度きりというわけにもいかず、感覚の優れた、器用なものならば短時間で習得することもできようが、大抵は一筋縄ではいかない。人はそれぞれ体格が違うし、柔軟性や筋肉の量も皆異なる。その動作を言葉で説明されても、経験のない者の頭の中ではピンとこないことも多いだろう。だから、指導者の動作を穴のあくほど観察しなければならないし、観察で得たと思う動作を自分で何度も繰り返さなければならない。そうして繰り返し、繰り返ししているうちに、ピントくる瞬間がやってくる。コツと言うのだろうか。目的の動作を自分の体で行うためのエッセンスのようなものがだんだんとわかってくる。

冬のオリンピックが閉会して間もない。日本の選手たちも検討し、ちょっと驚くほどの成績、メダルの獲得だったと思う。ジャンプとノルディック競技を合わせた複合では、最後の最後まで、日本の選手も混じってのデットヒートとなって、手に汗を握った。
私は20代から30代にかけてスキーにのめり込んだ。高校の時の担任の先生(体育の先生)がスキークラブを主催していて、同級の親友から誘われたのがきっかけだった。それからは冬から初春にかけて、毎年のようにクラブのツアーに参加し、彼自身から直接手ほどきを受けた。最初はなんども転び、急斜面には怯えるばかり。それでも懲りずに、幾度となくスキー場に通ううちに、ちょうど子供がはじめて歩き始めるように、ある時突然、何かをつかむことが出来た。それまで、いったい何度彼の滑走する姿を見つめ、どれだけ後ろについて滑ったか。気がつけば恩師からは『緩斜面の帝王』との称号を頂戴し、それなりにカッコよく滑ることができるようになって、日本スキー連盟が主催する検定会で2級まで取ることができたときは、それはそれは嬉しかったことをよく覚えている。

最近は極力修復対象への浸潤を控え、出来るだけミニマムな処置をするのが文化財修復(『文化財』とは、狭義な意味では国宝や重要文化財を指して言います)のトレンドとなってはいるけれど、だからこそ、高度な技術や手先の器用さが要求されることもある。とても貴重な、唯一無二の作品や資料に触れるならば、経験のない者は緊張もするだろうし、武者震いなら結構ではあるが、あるいは指先が震えるような者さえいるかもしれない。そういった大きな緊張下でも、処置対象を安全に、確かに取り扱うことができるように、自らの身体を自由に、繊細に、滑らかに使える能力を身につけることがとても大切で、そういった身体能力を身につけるという方法が、どこかスポーツの習得方法に通じるものがあると私は考えている。私はあの若かりし頃のスキーの経験で、体の繊細な使い方を学び、それを教えてくれる指導者の行動をつぶさに見ることができる観察眼のようなものも育てられたように思う。

皆さんは、熱心にスポーツに打ち込んだことがあるだろうか。その経験が仕事や生活に役に立ったと思ったことはあるだろうか。

 

2022年1月 8日 (土)

丸木位里 生誕120年企画展

埼玉県東松山市にある 原爆の図 丸木美術 では、この美術館の創設者でもある丸木位里の生誕120年の記念となる企画展が開催されている。
以下リンク先の動画では、企画展の紹介映像とともに、昨年、私が同美術館内でおこなった大型障壁画の修復作業の一部も公開されている。

生誕120年 丸木位里展 実験の軌跡をたどる
開催日:2021年10月30日(土曜日)〜2022年2月27日(日曜日)

企画展紹介動画 https://m.youtube.com/watch?v=LXKLeHo2Tec

丸木美術館 https://marukigallery.jp

2020年8月20日 (木)

裏打ちをしてはならない

 絵の具というのは色の元である顔料や染料に接着剤を加えたものである。基本的に、この接着剤がないと、絵の具自体も固まらないし、画布や画用紙にもくっつかない。

日本の伝統的な工法によって制作される浮世絵版画などは、この接着剤成分がほとんど入っていない。版木や画用紙への固着を助けるために少量の糊を加えることもあるようだが、基本的に、十分な接着剤は与えられず、版木に乗せた絵の具を馬簾を使ってゴシゴシと擦り付けているだけなのである。だから、こういった版画は水分に敏感に反応し、ちょっとした水を加えるだけで絵の具が容易に溶けだし、滲む。

かつて浮世絵を収集していた愛好家、コレクター達は、冊子の形状に束ねて保管、利用していたものも少なくなかった。額装する際に、ベニヤ板などに裏面全体をべったりと接着してしまった最悪な例もあるけれど、冊子にする際に、両面から鑑賞できるように二枚の浮世絵を背中合わせで糊付けしたり、版画用紙の強度を上げるために裏打ちをしてしまうと、糊の水分で背中合わせで相互の色が移りあったり、裏打ちした紙に絵の具が吸収されてしまい、画面の色が薄くなってしまう。

伝統的技法で制作された版画は近年、裏面も馬簾の使い方などを見るため観察の対象となっている。兎にも角にも、伝統的な版画には不用意に水分を与えたり、糊付けも、裏打ちもしてはならない。

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2020年3月30日 (月)

屏風の内側

伝統的な工法によって制作される屏風は、障子の骨組のような細い角材を格子状に組み上げたもの(下骨【したほね】とか下地【したじ】とか呼ぶ)をベースにして、この表裏にいろいろな方法で6〜7層ほど和紙を貼り重ね(ただベタベタと糊付けするのではない)、和紙で作ったの蝶番を取り付けて開閉できるようにしたパネル状のもので、かつては室内の間仕切りなどにも利用された歴史を持つ。屏風の表面には茶事用に無地の鳥の子紙を貼ったものや、祝い事用に金箔を貼ったもの、絵画を貼ったりするなど、必ず美しく仕上げるが、屏風の内部は人が目にすることのない部分となるためか、下張りに安価な雑紙や再生紙を用いたり、手を抜いて作業工程を省略しているものが結構多い。

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古い屏風を解体すると、昔の墨書きの帳簿紙や樹皮の多く混じった雑紙が現れてくることが多い。今回解体した屏風の裏面には、以前に現在とは異なった紙が貼られていたようで、この紙を剥がさず、そのまま下張りを重ね、新しい唐紙を貼った模様。この施工の際に所々穴が空いていたか、襖紙の切れ端などで簡単な補修が施されていた。

古い和紙(使い古しでも)は品質が良く、下張り紙に適していると言う人もいるようであるが、貴重な作品の修復、屏風装幀には、私の知る限り古紙や再生紙が使われることはないものと思われる(わざわざ古紙を使用する必要はないものと思う)。

2020年2月12日 (水)

虫喰い穴との格闘

虫喰いによる被害により、レースの編み物の様になってしまった紙。記録によると1400年代の半ばに原本から書写したと記されているこの資料は、およそ5mほどの長さの巻物に仕立てられていたが、激しい虫損の上、利用による汚損や損傷も生じているため、今回修復することになった。
虫損の激しい資料は、必要に応じて定着力の補強処置や洗浄などを行った後、細い枝や小さな島状になってしまった紙の断片を保護するために資料の表側から紙を仮接着(表打ち【おもてうち】と呼ぶ)して解装、古い裏打ち紙を除去する。古い裏打ち紙の除去に際しては、微細な紙片も余すところなく、傷つけず、取り除かない様に、少しずつ、慎重に作業を進めてゆく。

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