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趣味

2011年6月20日 (月)

歌うピアニスト

極度に細かい作業や、緊張を必要とする作業中に音楽を聴くということはしないが、単純な作業や、繰り返し同じことを続けるような作業中は音楽を流していることも多い。気分を変えてアップテンポの曲や、時にロックを聞きながらということもあるが、基本的には静かなクラシックやジャズを流す。クラシック曲の中でよく聞くのはグレン・グルード(pf)の弾くゴルドベルク変奏曲。友人の中にもこのCDを愛聴する者がいるが、グールドの絶対的なテクニック、濃密、精緻な演奏は圧巻だ。仕事にさえ集中できていれば、淡々と流れてゆく感じのこの曲は単純作業をしているときに良い。けれど、油断をしていると、ついつい聞き入ってしまうから注意をしなければならない(そんなときはいっそ手を止めて聞き入るか、CDを止める)。何でも、この曲は不眠症に悩む伯爵のために演奏されたという逸話があるが、このCDを聴いている限り、仕事中に眠気を催したことはない(苦笑)。

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このCD。知っている人も多いと思うが、大きな音で聞いてみると、かすかに彼のハミングが聞こえてくる。演奏しながら、彼は気持ちよく(たぶん)歌っている。
◎J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲 BWV988 / 演奏:グレン・グールド / CBSソニー22DC5543

2010年12月 7日 (火)

写真の価値とその行方

ちょっと前にカメラ女子なる言葉が流行した。週末、都心などへ出かけると、若い人が首からカメラをぶら下げているのが目につく(結構フィルムカメラも多いのに気づく)。近所の公園には、初老のカップルが、ちょっとした水筒ぐらいの大きさのレンズをつけた自慢の一眼レフカメラ(こちらはデジタル)を抱えて、野鳥の撮影にやってくる。写真、カメラファンは、いまもけっこう多いなあと思う。私も中学生のときにカメラにハマって、撮影のみならず、フィルムの現像からプリントまで全て自分でこなした。現在主流となったデジタルカメラから比べると、プリントができ上がるまでの行程、作業はとても煩雑で大変なばかりだが、手間をかけてでき上がった一枚の写真への思い入れも大きかった。
近頃は、携帯電話で写真を撮る人が多くなっているように思う。撮った写真は、待ち受け画面にもするのだろうが、ほとんどはデーターホルダーにしまいっぱなし、およそプリントすることも無いようだ。曲がりなりにも写真の制作に携わった者ならば、写真はプリントにしなければ、印画紙に焼かなければ写真は完成しないという感覚を持っていることが多いと思う。あるいは、お金をかけてプリントするほどの価値のある写真は撮っていないということなのだろうか。
デジタルカメラには欠かせない、コンピューターや周辺の電子機器の高速な進化は、撮影したデーターを瞬くうちに陳腐化している。フォーマットの進化の行方も定かでなければ、いずれ早いうちにその情報が利用できなくなる可能性も否定できない。データーを保存する媒体も、紙に焼いた従来の写真(およそ100年以上の保存実績がある)を超える保存保証をしている物は無い。デジタル画像のプリントも進化はしているが、やはり従来のフィルム〜印画紙から比べると、その保存性能は足下にも及ばないようだ。
フィルムを使わないカメラはランニングコストを大幅に減少させるメリットがある。撮影した情報をカメラのモニターやパーソナルコンピューターを使ってすぐに確認できるし、失敗を恐れずに、どんどんとシャッターを切ることも出来るのも魅力かもしれないが、そんな容易さもまた、写真の価値を低下させる原因の一つかもしれないと思う。

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◎初めて自分でかったカメラ。

2010年5月19日 (水)

骨董はあたらしい?

某TV番組のおかげか、不景気なせいなのか、新しい作品が売れない一方で骨とう品を珍重する人が増えているようだ。それが興味本位であれ、財産として、金銭的価値目当てであれ、私たちのような仕事をしている人間にとっては、古い物を大切にしてくれるのはうれしい限りではある。でも、骨董という概念は、確かに古い物を収集し、大切にもされながら、実際は現代における価値観のもとに成立をしていて、創造された当初からみれば、けっこう異なった見方、意味付け、価値付けがされていることが多いかと思う。美術館や博物館に展示され、芸術作品として、あるいは歴史資料として捉えられる仏像は、本来しかるべき寺社に納められ、かつては信仰の対象として、神の化身として崇められていた捉えられていた存在から、現代の私たちによってガラス製の展示ケースに収められる観賞の対象となっている。骨董というモノも、じつはもとのイメージとは異なった価値を与えられた、あたらしい『別モノ』として、私達は捉えているのではないだろうか。

2009年5月19日 (火)

安易な修理にご用心

近ごろでは、文具店や画材店にいくと様々な種類の接着剤が販売されている。首都圏で有名な東急ハンズや街にある大きなホームセンター、DIY店などにいけば、プロフェッショナルも使うようなものが簡単に手に入る。用途に合せて種類も様々で、その姿形も液状のモノからはじまって、ゼリー状、粘土のようなモノ、固形、テープ状と様々だ。店頭に並ぶパッケージは色とりどりで、新しい物好きの私などは、つい手にして試したくなる(仕事上必用なことでもあるので実際に多くを試している)。これらの接着剤料は、知識のない者でも、子供から大人まで安心して利用出来るように安全設計されていて(もちろん使い方を間違えなければ)、利用強度の高さに優れ、なお簡便性の高いモノが多くて魅力的だ。
けれど、こういったものを、とくに『大切』と思われる物には安易に利用しないで欲しい。間違ってもパッケージにうたわれた効能を鵜呑みにし、上辺だけで判断したり、DIYの趣味よろしく不用意な補修に利用するのも控えていただきたい。
かつて、その簡便さからか、版画やデッサン、水彩画など、紙製の作品を額装する際によくセロテープなどと呼ばれる透明の接着テープが利用され、今もなお、この接着テープの被害を受けた作品が工房に数多く運び込まれる。接着テープの利用によって生じる一番大きな問題は、経年と共にテープ(フィルム)上にあった接着剤が被着物にゆっくりと溶け出し、染み込んでゆくこと。さらに、時間を経るとこの接着剤が変色して、こうなった時は除去するこが極めて困難になる。
市販されている接着テープは、日常生活における用途に十分に答えてくれる物で、短い時間か、使い捨てを念頭に利用すれば全く問題はないだろう。それを良く理解して使う限り、安全で使い勝手も良い物が多い。しかし、貴重な美術品や資料に対して利用する修理材料としては、長期的な安定に欠ける物が多く、後の可逆性(時間が経っても安全に被着物を傷めずに除去出来ること)を保証するものはほとんどない。私達修復家の取り扱う物はとても貴重なだけに、修復に利用する材料や素材に求める要求も一般からくらべればかなり高く厳しい。昨今ではずいぶんと研究も進み、中にはかなり長期的に安定する接着剤、接着テープも増え、一方、以前から私達のような専門家しか使うことのなかった商品も店頭に並びはじめている。でも、やっぱり安易に利用することは常に控えたい。どんなに優れたものにもウイークポイントやデメリットはつきものだ。。強力!とか瞬間!であれば全てが良いワケではないのである。
大切なものが壊れたら、まずは専門家御相談を。

Img_5165市販の接着テープで固定されていた版画作品の裏面。帯状、茶褐色に見えるのが接着テープの変質した痕。経年と不良な額材から発生するガスなどによってテープの接着剤が変質してしまった例。こうなると修復処置は結構大変だ。