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文化・芸術

2024年3月27日 (水)

柳宗悦の審美眼の行方

思想家の柳宗悦は、日常で使用する什器に美しさを見いだし、製作する職人の手仕事に高い価値を見出した人物である。彼はのちに、陶芸家の富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎らとともに 庶民の暮らしの中から生まれた美の世界(柳が見出した美の世界)を紹介する活動を始め、以後共鳴者を増やしながら、それはやがて民藝運動へとつながってゆく。

柳は民藝運動の祖とされており、彼らの運動によって、様々な地域で生産される食器や家具、衣服(織物)、道具が広く知られるようになり、その価値も、生産者(職人)も高く評価されるようになったが、最近の研究によると、柳はこの運動によって波及する民藝趣味やその大衆化を望んでいたのではなかったようだ。

目黒区の駒場にある日本民藝館は、柳らが見出し、創り出した『民藝』という美の概念を広く社会に紹介するために、その本拠地として建てられた施設であり、私も何度か足を運んだことがある。日本民藝館はその建物自体もとても素晴らしいもので、隅々に伝統的な日本家屋の工法の髄を極めた作りにも魅了される。中に入れば、柳が日本各地、諸外国から集めてきた工芸品が展示されていて、それはどれも皆、柳の審美眼による選りすぐりのものばかりで、その中にはかなり個性的で、一風変わったものも展示されている。
民藝館を訪れると良くわかるような気がするのだが、彼が言うところの『民藝』とは、毎日手仕事により作られる数多の什器の中から『希に』『たまたま』生まれ出てくる『希少な』『選りすぐりな』一品を指して民藝の素晴らしさを謳ったのであり、その土壌や生産者の可能性をも評価はしてはいたのだろうけれど、彼の審美眼が捉えるもの以外は、その対象とは考えていなかった(興味もなかったろう)ようだ。
柳の創造した美の世界は、広く大衆に紹介される途中で、いつか自分の意図していない方向へと変化しながら拡散して、気がつけば何でもありの大雑把な民藝となってしまったようである。竹中均さんの著書によれば、『柳本来の意図とは異なった 民藝趣味 民藝の大衆化 下手物のアウラ化 が起こった』とある。

今日も柳宗悦は民藝運動の祖と呼んで誤りはないと思うけれど、民藝運動とは、実は彼の経験に基づく審美眼、美意識を追求し、構築するための作業であり、それを熟成、成就させるための運動であったよううに思う。それは人の創り出した物への新たな発見、それまで存在しなかった価値観の創造でもあるのだろう。でも、考え方次第では、たとえ柳が不本意であったとしても、彼が思わぬ形になったとしても、柳の運動を契機に、大衆から新たな美意識や審美眼が、価値観の創造がなされたと見ることもできるだろう。そういった民藝運動でもあったのだろうと私は思う。

私たちが今対峙している美術品も、いつかきっと誰かの審美眼に、新しい価値観に捉えられ、新たな存在意味をもたらされるのだろう。

 

日本民藝館<https://mingeikan.or.jp>

竹中均著:柳宗悦・民藝・社会論 ーカルチェラル・スタディーズの試みー

 

2024年3月 8日 (金)

絵画の一期一会

ジャズという音楽ジャンルに新しい道を切り開いたエリック・ドルフィーは、『音楽というのは演奏を始めた瞬間から大気の中に消えていってしまい、私たちは二度とそれを取り戻すことはできない』と言った。

短い曲でもいい。長い曲であるならばなお、演奏者のその時の体のコンディションや精神のあり方次第で演奏も変わるだろう。私も若かりし頃、好きなアーチストのコンサート、ライブ会場によく足を運んだが、それはレコードで聴いていたものとは全然違うし、当人のコンディション以外にも、会場の作りとか、集まった客によってもパフォーマンスは変わってくる。生演奏、ライブというのはそういうものかともう。

昨今デジタル化された音源や映像の中には、往古の貴重なの生演奏を見たり聴くことができるものもあるが、例えその演奏を記録して、再生することがいつでも可能となったとしても、当時の演奏された場所の空気、湿度や温度、はたまた匂いのようなものを残し、再現することは今もできない。その場にいて見たり聞いたりすることと、CDや携帯端末から聴く音は全く違うものだ。

初めてアンリ・ルソーの絵画作品を見たときには、描かれた人と建物や動植物背景の大きさもメチャクチャで、まるで子供の塗り絵みたいだなあと思ったものだ。しかし、この仕事をについてしばらくして、パリのオルセー美術館で『蛇使いの女』と対峙した時は、あたかもそこから放たれた妖気のような何かに絡みつかれるように、奥深いジャングルの湿った、生暖かい空気に包まれるような不思議な感覚にとらわれ、この絵画の怪しくも不思議な世界にすっかりと魅了されてしまい、しばらくその場を動くことが出来なくなった。

茶道の席ではよく『一期一会』という言葉が使われる。その時、その場所で、その瞬間だけ得ることのできる感覚や印象、そういった体験は音楽や絵画だけに留まらず、私たちの周りをよく注視すれば、いつでもそんな一瞬と遭遇できるのだろう。
私は体力、健康を維持するために、趣味方々、毎週30~40キロ程度のサイクリングをしているのだけれど、同じコースを走っていると、時間や季節によって体感する温度や湿度、空気の香りも変わって来るのがよくわかる。いつも目にする風景も注意深く見てみると、またなんとなく違って見えて、その印象、気持ちを味わうこともまた楽しい。

いつも見ている一枚の絵画も、明日はまた違って見えるかもしれない。

2023年4月12日 (水)

わたしの原点

最近お気入りの店、千駄木駅の近くにある乃池(のいけ)という寿司屋に久しぶりに行ってきた。結構な歳月を感じさせる古い佇まい、間口の狭い店の一階は、十人も入ればいっぱいかと思う店(二階もあるようだ)であるが、カウンターに座ると、長い年を経てなお木肌の美しい、真っ白に磨かれた付け台に驚き、寿司を握る親方の包丁捌き、手捌きに見惚れてしまい、ついつい箸も止まってしまう、、、。

私の父も、母方の祖父も表具師だった(父は当初この祖父の工房で働いていた)こともあるのだろうが、小さなに頃に住んでいた町の近隣には、様々な手工業に携わる職人の住まいや工房があって、建具屋に箱屋、刷毛屋、塗師屋(【ぬしや】漆を使った塗装を行う店)、畳屋、大工などと、さまざまな職人の技を目の前にする事もできた。
当時、父に連れられてよく行った漆屋では、『かぶれるからあちこち触っちゃいけないよ』と脅され、おっかなびっくりでついて行った。この塗師屋さんでは、それまで嗅いだことのなかった漆と片脳油の匂い立ち込める中、定盤(じょうばん=作業台)の上で素早く練られ、屏風の細い縁に手際よく塗られてゆく、滑らかで艶やかな漆の美しさに、私の目は釘付けになった。余り熱心に見ているものだから、「おい、おまえ俺の弟子にならないか」と言われ、困惑したことを今でもよく覚えている。
それからしばらくして、色々と事情もあったのだけれど、あまり先のことも考えずに、絵画の修復家になろうと、当時独立をしたばかりの父の元で修行を始める決心をした。父が独立をしてからも、ずっとお付き合いをしていた塗師屋の親方は、私が父のもとで修行を始めてしばらくして亡くなられ、一緒に仕事をしていた息子さんが店を継いだが、彼も私が一人前になるかならないかのうちに、若くして亡くなってしまい、訃報を聞いたときはとても寂しい思いをした。

他のどんな仕事であっても、簡単に習得できるもの、楽に稼げる仕事など一つもなかろうが、手に職を持ち、それを生業として生きてゆくことはまた厳しいことである。それが今や、コンピューターテクノロジーが急速に進化したおかげで、様々な物が素早く正確に、大量に作られるようになった。現在では、人が何年もの修行により獲得できるような作業も、高性能な機械、ロボットにいとも簡単に、素早く正確に作られるようになっている。丁寧に、長い時間をかけて、人の手で一つ一つ作る様な商品の需要は減る一方であり、職人という存在も、過去の遺物のように大切には思われても、あるいは希少であることから珍重はされても、広く現代社会の中においては、その存在価値も薄れ、稀有な存在となっているように思う。
あの日、職人の働く姿を見ることがなかったならば、私の人生は大きく変わっていただろう。今ではなかなか目にすることも出来なくなった、様々な職人たちの技を間近に見ることができたことをとても幸せに思っている。親しくしてくれた親方からは、後年、結構な情報と技術のご教授をいただいた。それは全て今の私の血となり肉となっている。

私も修復家を標榜して久しい。職種は違えど、かつて見た職人と同じように手に職を持って経験を積み、自分なりに努めて知識も技術も高めてきたつもりである。今では結構大きな問題を抱えた作品と対峙しても、処方に困ったり、若い頃に感じた恐れや不安のようなものを抱くこともなくなった。業種は違えど、あのとき憧れた職人たちに、私も少しは近づく事ができただろうかなと、ちょっと自信が持てる様にもなった今日この頃である。

2022年8月29日 (月)

150分のレンブラント

レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn)はおよそ1600年代に現在のオランダで活躍した巨匠。いわゆるバロック時代に『光りと影の画家』と異名を持った天才画家である。彼の代表作である『夜警』(より適切な題名は『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊)は、縦3メートル63センチ、横4メートル37センチという巨大な作品でもあり、1642に完成した。実はこの作品、夜を描いた作品ではなく、表面に塗布したニスが経年によって画面を暗くしていたために、いつしか『夜警』と呼ばれるようになったそうだ。この絵は題名となった市民隊(火縄銃手組合による市民自警団)が出動する瞬間を描いている。完成した当初は人の影になる者や、顔の前に手をかざされているなど、はっきりと描かれなかった団員がいて、不評を買ったようである。

コロナの影響もあったのだろう。今年は本業の絵画修復の仕事が少なくて、暇な時間が多かった。ピンチはチャンス。ではないが、私はこんな時こそ日頃できないことをやろうと心に決めていて、絵画の勉強も兼ねて、少し前から何度か挑戦していた有名絵画の模写をまたやってみようと思いついた。この作品への挑戦は、もう少し腕が上がってからと思っていたのだが、今回は思い切ってこの『夜警』に挑んでみた。

製作は支持体作りから。厚手のシナベニヤに膠で麻布を貼り、今回は試しに胡粉(これまでは白亜を使ってきた)による地塗りを10層あまり施し、平滑に研磨して平滑な下地を作った。この支持体、下地はレンブラントのものとは異なるが、とくに細かな筆致で絵を描くときには都合が良く、これまでに何度か試作をしている。下地の乾燥を待ちながら、インターネットからいくつかの画像を入手し、制作した支持体の大きさに合わせた画像プリントを作り、およそのレイアウト、アウトラインを写しとり、グリサイユ(白黒のグレースケールで描くこと。実際にはこれに褐色系の色を加えて描き始めている。)もどきの明暗をつけ、彩色を始めた。
支持体づくりは手慣れたものであるが、下書きを始めた頃からは、『まったく、えらい作品を選んでしまった』と思いつつ、描き出すうちに、いつか夢中になってしまった。

この作品は、オランダのアムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam )のインターネットサイトで高精細な映像を見ることができるが、見れば見るほど、まるで宝石のように美しい。このサイトでは結構拡大してみることもできるので、レンブラントの細やかな筆致とともに、場所によっては結構大胆な筆致で描いているのがまた面白い。

私は絵画や美術品の修復をしているので、日頃から細かな仕事には慣れているが、少々縮尺率を誤ったかもしれない(笑)。縮尺率はおよそ150分の1。絵筆は0号、00号、000号を使い、それこそ重箱の隅を針でつつくようにして、仕事の合間に、夕食の後に深夜まで描き続け、かれこれ2ヶ月とちょっとかかったろうか。まあ、なんとか観れる程度には出来上がったかと思う。

レンブラントとにらめっこをした日々。終わってみれば濃密な時間を過ごしたかと思う。

20220829

<https://ja.wikipedia.org/wiki/レンブラント・ファン・レイン>

<https://www.rijksmuseum.nl/nl>アムステルダム国立美術館

2022年1月 1日 (土)

絵画は言葉たりうるか

言語学者であったフェルディナン・ド・ソシュールは、『人は生まれた瞬間から言葉の網にとらわれる』というようなことを言った。私たち人間は、言葉がなければ他者と通じ合うことも難しいし、この世の全てを知覚する瞬間に(その行為自体が)、頭の中では言葉化されている。私たち人間が様々な事象に思いを巡らし、思考することができるのも、言葉というものがあるからに違いない。

美術館に展示されている絵画のもとには、学芸員や研究者が言葉を駆使して、その絵画のなんたるかを説明した文章が添えられることがある。さらにはその作家の生まれ育った経緯や、その作品が描かれた当時の社会背景までが記されていることもある。その作品にまつわる様々な情報を鑑賞者に提供し、絵画作品をよりわかりやすく、深く理解するためにと、彼らの言葉にはそんな思いが込められている。彼らの集めた情報や絵画の解釈は、一鑑賞者としても、私たちのような専門家にとっても有益なものばかりではある。
しかし、情報を得てから絵画を鑑賞する場合と、それを得ないまま鑑賞した場合では、鑑賞者がその絵画から得る印象も変わってくるだろう。絵画には画家自らが与えた題名がついているものがあり、この題名も、同じように作品の鑑賞に影響を与える。もちろん、作者自身がつけた題名ならば、当人の思想が反映されたものとして、たとえそれが理解への誘導であったとしても、どこか腑に落ちるだろうが、『言葉ではない』画家の思考や思想が反映した絵画を、他者はどうすれば忠実に言語化できるのだろうか。
世界的に有名な絵画の中には、数多の研究者が言葉を尽くした多くの言説が残されている。けれど絵画というものは、他者の目に触れた瞬間から、鑑賞者にはまた様々な印象を与えるものである。絵画には、言葉ではないからこそ、鑑賞者もまた自由に観て思考を巡らせることができる『余地』のようなものがあると思う。それはたとえ、宗教の教義を示すものであったとしても、信仰の対象であったとしても、それを知らぬ者は、あまたある絵画と同様に向き合い、何らかの印象なり、感想を持つだろう。鑑賞者が画家や識者の意図しない、予想打にもしなかった印象、感想を得たとしても、それを何人たりとも否定できるものではなく、それもまた絵画たればこそである(たとえば、信仰の対象であったイコンや仏画も、教会や寺社より外に出され、美術館や博物館の中に置かれると、途端に美術品となることを多くの人は知っているだろう)。

そもそも、絵画には正しい解釈や理解というものがあるのだろうか。はたまた、画家、製作者以外の人間が確かに絵画を理解することなどできるのだろうか。言い方を変えれば、いったい、私たちは何を持って絵画を理解出来たということになるのだろうか。

昔、知り合ったある画家は、作品を仕上げるたびに、その絵画の制作意図からはじまり、どこでどんな状況、心境で描いたか事細かく話していた。大変お世話になったので、展覧会の初日にはいつも会場に足を運んだのだが、その際も来場者を捕まえては、くだんの説明を熱心にしていたことをよく覚えている。そして、私はこの時から、いったい絵画とはなんなのであろうかと、ずっと思考を繰り返している。
私たちは確かに言葉に捕らえられている(そう思う)。言葉なしには物事を考えることもできないし、もちろん芸術作品を創造するなんてこともできないだろう。けれど、絵画は言葉ではない。もし、言葉を表現したいならば、文字で表せば事足りる足りるだろうし、鑑賞者に識字能力さえあれば、絵画などよりずっと容易に、確かに理解することができる。けれどそれをしない画家は、自らの頭脳、心象中に生まれ出る何かを表現(体の外にものとしてアウトプット)しようとして、それが言葉では表現できないから、絵の具や画用紙、キャンバスを使って絵を描くのではないだろうか。絵画とは、言葉の網を突き破って生まれ出されたものなのではないだろうか。はたして、私たちはそれを確かな言葉に置き換えることができるのだろうか。さらに乱暴に言ってしまうと、それを言葉に置き換えるという行為が、その絵画を理解するということなのであろうか。

昨年は巨大な絵画を修復した。修復に与えられた時間に限りもあり、およそ応急的な処置となったが、それでも数十日間の長い時間集中して間近に作品と向き合い、この手で触れているうちに、画家が製作に費やした濃密な時を追体験しているような感覚を持った。たとえそれが錯覚であったとしても、そんな錯覚が得られたことを一人の修復家として幸せに思っている。

  My-works

2021年8月17日 (火)

絵画の国籍とカテゴライズ

『日本画』と呼ばれる絵画のジャンルがある。多くの人々はいわゆる伝統的技法により製作された水墨山水とか、大和絵(私の日本画のイメージはこの大和絵である)に代表される、故事、昔話を題材に描かれた絵画をイメージするのだろうか。あるいは、その技法は知らずとも、独特のつや消しの絵肌を持ち、屏風や掛け軸、巻物に表装、装幀された絵画をそう呼ぶと思っているだろうか。そもそも『日本画』という呼称が生まれたのは明治時代(概ね明治20年代から30年代)で、ヨーロッパからもたらされた西洋絵画と区別をするために生まれた新しい言葉である。もちろん、当時から『日本人によって描かれる絵画が日本画』という認識はあった様ではあるが、これが現在まで続いているのは面白い。
日本にはまた、油彩画という言葉がある。絵の具の接着成分成分(展色材【てんしょくざい】とも呼ぶ)である乾性油をもって油絵と呼ぶが、これに対して、絵の具の接着剤を膠とする日本の絵画を膠絵【にかわえ】などと呼ばれることは、およそ聞いたことがないのも興味深い。

歴史を紐解いてみると、それまでは唐絵【からえ】と呼ばれる中国や朝鮮半島から輸入された作品と、大和絵【やまとえ】と呼ばれる日本国内で日本人の手によって描かれる絵画のスタイル、ジャンルしか無かった。そして大和絵というのも、輸入されてきた絵画とその情報から派生、影響して作り出されたものである。
日本では明治20年に現在の東京藝術大学の前身である東京美術学校の創設を前後して、様々な美術団体が生まれた。それまでは伝統的に、狩野派、円山・四条派などの流派によって長く守られてきた国内の絵画技法やスタイルが、学校教育や展覧会という情報公開によって次第に混じり合い、変化進化をしてゆくことになる。
東洋美術の研究者であり、哲学者であったアーネスト・フェノロサは、ボストン美術館付属の美術学校で油絵とデッサンを学び、来日後は日本美術に傾倒し、助手となった岡倉天心と東京美術学校の設立にも尽力したと言われているが、実は彼こそが『日本画』という言葉とジャンルを作った人らしく、西洋の絵画に劣らぬ美しさの優位性を解くために、次のような日本の絵画の定義を行なっている。1.写実的ではない(写実を求めない)。2.物の陰影を作らず平面的。3.描線により姿形が作られている。4.淡い色が用いられる。5.表現スタイルが簡潔である。と。
この時以降、『日本画』という区別の仕方や呼称はごく一般的なものとなっていった様であるが、そんなフェノロサ自身はと言えば、は狩野芳崖ら当時の画家達に西洋の絵画技法を伝え、新しい日本画のスタイルを模索し、一緒になって創造に取り組んでいたというからまた面白い。
それからしばらくして製作されてきた作品の中には、『日本画』というジャンルに分類したり、そう呼ぶことがしっくりこない作品も多くなったかと思う。現代ではすでに、フェノロサが定義したような要素も少なく、あるいは見る影もなくなり、そんな要素は一切取り払われた作品もあるし、これもまた日本画と呼ばれることにちょっと違和感がある。

これはあくまで私個人、一修復家としての私見ではあるが、現代社会における『日本画』という呼び方や分類方法は、あまり大きな意味もなくなったと感じている。そもそも自由な発想、思考の元に製作されるべき芸術作品にたいして、国籍の様なものを与えること自体ナンセンスではなかろうか。現代において絵画のジャンル分けをするならば、科学的に観て、絵画の要素として最も重要な要素である絵の具に注目し、油絵の具で描かれた油絵、アクリル絵の具で描かれたアクリル絵、そして膠絵などと分類するだけで、それがいちばんシックリと落ち着いて良いと思っている。もちろん、このカテゴリーにさえ当てはまらぬ、素材も技法もわからぬ、得体の知れぬ作品(混合絵、ハイブリット絵画とでもしようか)があることも忘れてはいけないだろう。

さて、皆さんは如何お考えだろうか。

*乾性油【かんせいゆ】
空気中で徐々に酸化することにより、固化する油のこと、台所の固まった油汚れも同じ理由で固まる。亜麻仁油・桐油・芥子油・紫蘇油・胡桃油・荏油・紅花油・向日葵油など植物から生成される

 

2020年6月10日 (水)

好きこそ物の上手なれ

少し前に、作曲家、ミュージシャンの坂本龍一さん(1980年代にイエローマジックオーケストラで活躍。私もよく聞いた)の新聞記事(朝日新聞インターネット版)が目に止まった。彼いわく、『音楽の 感動 というのは、基本的に個人個人の誤解だと思う。理解は誤解。 感動 す るかしないかは、勝手なことで。ある時にある音楽と出会って気持ちが和んでも、同じ曲 を別の時に聞いて気持ちが動かないことはある。音楽に何か力があるのではない。』と。
音楽というのは音符という記号を作曲家が好きなように並べて、それを楽器や歌手によって音として表現しただけのもので、それを聞いてどう思うか、その受け取り方は、時代、社会、文化背景の違いや、言語の違いによって、人の経験によって、あるいは耳にした時のシュチュエーションによっても左右されて、人の精神の中で様々に変容するものであると思う。『音楽は世界を超える共通の言語である』などと言う人がいるようだが、実際には全ての人に同じ感動を与えることはできないし、理解を得ることも難しいと思う。そもそも、人は自分が気になったり、好きだと思ったものにしか関心を持たないし、興味も湧かぬものである。

ちょっと無理やり、音符という記号も『材料』と考えれば、音楽はそれを組み合わせただけの物、他の芸術表現を見てみると、絵画は動植物から作り出した織物や紙に色(絵の具)を加えただけの物。彫刻は自然に生えている木を切り倒し、木材にして組み合わせ、切り刻んだ物。あるいは粘性のある土を固めた物でしかない。それぞれに特異な色や形態を持ってはいるが、それらを『ある材料、素材を組み合わせただけのもの』と捉えるならば、私たち人間が作り出した芸術作品は皆おしなべて単純で無味乾燥なものに見える。

坂本さんは『それ(作曲、音楽活動)が好きだからやっているだけ』と言っていたけれど、私はこの『好き』という心の有り様が、精神の中に生み出されるこの動揺や衝動の様なものこそが、私たち人間にとって最も大切で、重要なものなのではないかと思う。
この世界において、
私たちが生存するためだけならば、それこそ食物として摂取でもできない限り何の意味もない物に、何らかの価値を見出して、わざわざ手塩をかけて、苦心惨憺して組み合わせて何かを作り出そうとする様な人の行動は、この『好き』という感情がなければ成し得ることはできなかっただろう。そして見知らぬ誰かが作りあげた創造物に、高い評価や価値を与える行為もまた、同じように人の『好き』によってなされるのではないだろうか。

『好きこそ物の上手なれ』などという諺もあるけれど、『好き』こそが私たちの世界を彩り豊かにして来たのだ。

それとも、これも私の『誤解』だろうか。

 

2019年10月31日 (木)

残念でならない

 

今朝早く、テレビのニュースで沖縄の首里城が炎上している姿を見た。なんと言うことだろうか。私は修復家仲間の依頼で、今年初めて、絵画作品の調査のために沖縄を訪れていて、この時に仲間の案内で首里城を見学できた。ここには、彼らが丹精を込めて修復した歴史資料もたくさん保管されていたようで、メールで送られてきた彼の落胆ぶりは察するに余りある。

誠に残念でならない。

 

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2019年10月 8日 (火)

岸田劉生展

今日は東京都内へ仕事がてら、東京駅、東京ステーションギャラリーで開催中の岸田劉生展に行ってきた。彼の作品には、描く対象への執念のような追及があり、何か妖気のような、ちょっと怪しげな印象を持つ。今回のようにたくさんの劉生作品を一度に鑑賞できるチャンスはなかなかないだろう。この、妖気のせいか、平日のせいだろうか。今日は思っていたよりも来場者が少なくて、ゆっくり、じっくり鑑賞できたのは幸いだった。今回は油彩画だけではなく、彼の日本画も観る事が出来る。彼の日本画には、独特なセンスが生かされていて、また素晴らしい。東京では10月20日までの開催ではあるが、興味のある方はぜひご来場されたい。

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東京ステーションギャラリー

2018年6月10日 (日)

写真の歴史の終焉

私が最初に手にしたカメラは父のもっていたCanon製のカメラで、高校生の頃には白黒写真に熱中し、撮影はもとより、フィルム現像から印画紙へのプリントまで一通りおぼえた。あれから結構な歳月が過ぎて、今ではおよそほとんどのカメラがデジタル式になり、かつては専門店に限らず、あちこちの店先で販売していたフィルムも滅多に見なくなった。最近はスマートフォンの普及と性能の向上によって、カメラの需要も激減しているように思う。カメラのデジタル化によって、『写真』の取扱いや利用方法も変わり、かつてはプリント(印画紙に画像を焼き付ける)してはじめて写真となり、鑑賞利用されたものが、いまや印画紙にプリントされることもほとんどなく、スマートフォンやコンピューターのメモリーの中に、あるいはインターネットのサーバーに画像データーとして蓄積され(あるいは放置されて)、液晶モニターを介して鑑賞することが主流になっているのではないだろうか。

昨今、『写真』は『画像』という風に、呼び方まで変わって来ている。フィルムの現像、印画紙へのプリントという一連の処理から開放された写真は、電子機器の普及と発達にともなって、より多くの人に利用され、日々大量のデジタル写真画像が製産されるようになった。もはや多くの人がフィルムカメラを利用することも望めない時代となったのであろうこの頃、カメラメーカーCanonがフィルムカメラの生産終了を発表した。また一つ、ある歴史が終焉を迎えたようだ。

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プロ用フィルムカメラの最終型EOS-1v。なんと製造は8年前に打ち切られ、Canonはずっと在庫を販売していたそうだ。昨今、私も使う機会が無くなってしまった。

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