チェザーレ・ブランディと柳宗悦 ー ふたりの創造者 ー
美術評論家、チェザーレ・ブランディが『修復の理論』の中で記している『弱音器』という概念は、汚染や変質、変色(古色、古色化)といった、多くの人にとってはたぶん忌み嫌われるか、捨てるもの、取り除いて当たり前と思われていたであろうものに歴史的価値とある芸術性(拭い取るべきでない効果、そこにあるべき効果)を見出したという意味において、そして民藝運動の創始者と言われる柳宗悦は、日々の生活ではその芸術性など誰もが考えもしない、日常に(民間で)使用する雑器や道具に高い関心を寄せ、名も無き者がつくるものに芸術性を見出し『民藝』という概念をつくりだしたという意味においてとても興味深い。両者はそれぞれに文化も言語も仕事も違い、何もかもが異質でありながら、私には両者の概念がどこか重なって見えてくる。
ブランディの言う『弱音器』(=古色、古色化した材料、素材)という概念は、その実態である何かの汚染や劣化の果ての変質や変色の全てをそう呼んでいたわけではないと私は考える。絵画の修復においては、芸術性(ブランディの『修復の理論』/翻訳には美術性と書かれているが、芸術性と言い換えても差し支えないだろう)を第一にしなければならないといっているから、例えば一枚の絵画上のそれは少なからず芸術性に寄与していることが望まれるだろうし、鑑賞の弊害などとなってはならないものだろう。一方では、その『弱音器』に価値があるかないか(私たちの修復現場ではそれを残すか、取り除くか)という個々のケースにおける判断理由や基準を決めることも難しい。どんなにその科学的な分析をしようとも、得られるデーターは物質の成分、性質、現状といった有様を説明するだけであるから、それを残すべきか残さざるべきかといった判断材料、エビデンスともならないし、ましてやそれを『弱音器』などと称してしまうことは、ブランディ自身が同著書の中で言っているように、意識における新たな再創造(=私は現在の鑑賞者、所有者、管理者による解釈、意味付けと理解している)によってでしか決定することはできず、その『弱音器』とは、まさにブランディこそが、彼の意識における再創造によって認識された『弱音器』なのではないかと思うのだ。
東京の駒場にある日本民藝館は、柳宗悦が生涯に蒐集した選りすぐりの什器、工芸品などが展示されている。その姿形の美しいものも数々あるけれど、ちょっとばかりユニークであったり、少々突飛にも思える様なコレクションを眺めていると、彼の独特の美的世界を窺うようで、これこそが柳自身の見出した『民藝』であると私を説得してくる。最近の研究においては、彼自身、後に広まる何でもありの民藝(手作りの工芸品ならば全て民藝という様な考え方)を望んではいなかったようで、一つの工房で日々何百と作られる雑器の中に、稀に、あるいは偶然に出来上がった柳の目にかなう逸品をして、高い芸術性を見出していた様だ。柳と共に民芸運動に参加した陶芸家の濱田庄司は『民藝は柳の食い滓(カス)だ。いいところは見た瞬間、全部柳が持っていっている。その滓を皆が民藝だと思って騒いでいるのだ』といったそうであるが、濱田は『民藝』という概念も彼の意識における再創造によって認識された『民藝』でしかないことを証言しているようである。
ブランディも柳も、美術評論家(ブランディは歴史家、柳は宗教哲学者としても紹介される)として紹介されていることも興味深いが、彼らはお互いに物事をとても主観的に見ていた様に思う。ブランディに関していうならば、イタリア語の、そして彼自身の独特の言い回しからなのか、科学的には劣化した状態、変質による古色=悪化をして『弱音器』と表すなどいかにも情緒的であるし、独特の物事の捉え方、センスがうかがわれ、また私の中で柳のそれとダブって見える。『修復の理論』中で、『芸術作品が他のものと比べて特異なのは、その物理的実体や歴史性にあるのではなく、その芸術性にある』(一部省略)と記していることを見ても、科学的には説明し難い(多義的でつかみ所のない)イメージ(現在の再創造を含んだもの)こそを大切に考えていたものと思われる。
柳は自著『見ること』、『知ること』というエッセイの中で、美への認識は直感が大切であるとし、『美への問題は見ることから知ることへと進むべきだ』と言ってる。さらに『見る力とは生まれてくるものであって、人為的に作ることができない』とまで言っているのはとても興味深い。ブランディも柳も、お互いに独自の芸術感覚、審美眼、直感?を持っていた。そう信じていたものと思われ、そんな彼らが創り出した『弱音器』であり『民藝』である
二人はお互いに、いま目の前にあるものから新たなものを創造(再創造)した。そういう意味において、私には似た者同士に見えてくるのだ。
参考:『民藝の擁護』松井健
『修復の理論』チェーザレ・ブランディ