芸術は未来のヒント
フェルディナンド=ソシュールという言語学者は『人は生まれた時から言葉の網にとらわれる』といい、文化人類学者のレヴィ=ストロースは『人は生まれながらにして社会の見えない構造にとらわれている』といった。ある精神科医によれば、このことを教育し、躾ける機関の最たるのが学校であるという。日本で言うならば、ほとんどの人が幼稚園から中学校まで、およそ10年以上にわたって、この言葉や社会の構造にうまくハマるように教育され、躾けられるのである。
こんな話を聞くと、私たちには自由な意志があるじゃあないかと思う人もいるだろう。けれども偉大なる先人が唱えた構造主義哲学の立場から見れば、私たちは皆、牢獄のような閉じられた中にいて、この意志さえも、言語や社会のあり方に左右されてしまうのだ。
でも、しかしだ。脳科学者によれば、私たちの脳の中には、あまり使われていないような領域があって、そこは未知数のようだ。もしかして、この脳の一部分に、例えば学校での教育も歯が立たず、躾けることさえ手強い何かが残ってはいまいか。
私は長く絵画をはじめとした芸術作品の修復を生業としているが、いうまでもなく、絵画の中には言葉はない(ある物語をテーマにした作品はあるが)。往古の作品の中にも不思議なものや奇妙なものはあるが、とくに現代絵画の中には、理解することさえ拒絶されるような、対峙する私たちを困惑させる作品も少なくない。そして、きっとそんな芸術作品の創造者たちの頭脳の中に、いまだこの世界にとらわれていない、躾けられていない独自の、原始的とも言えるような思考世界が維持されていて、その思考があるからこそ、独自の作品を創造することができるのだと私は踏んでいる。それはまさに、今までこの世界になかったものを作り出す源であり、これまで見たことも聞いたこともない世界だからこそ、筆舌に尽くし難い何かをたたえ、私たちの想像を超えて、驚きや不安、不思議な感覚を覚えさせてくれるのだと思う。
芸術がわからない、理解できいないという人がいる。それは私たちの多く、いやほとんどの人がこの言葉にとらわれ、この社会の虜となっているからなのだろう。だから、その外側にあるモノはわかりにくいのだ。おそらく、人間の芸術活動こそがこの言葉の網を破り、現代社会の構造を飛び出して、未来へ向かうきっかけや手がかりとなるのではないだろうか。そこにこそ未来のヒントがあるに違いない。だから、私たち人類にとって掛け替えのない芸術活動なのだと思う今日この頃である。
私の中にも躾けられていない思考が残っているだろうか。