私は20代の頃から40代にかけて、毎月数冊の本を欠かさず読んでいた。文化財の保存や修復に関する書籍などなかなか見当たらなかった頃(現在でも日本語で書かれた物、翻訳されたもの含めて極めて少ない)、私の仕事に関係がありそうな本、役立ちそうな本を片っ端から読んだ。中学生や高校生向けの化学の本、工芸品や絵画の技法書は、直接的に役立つ情報も多く得られたかと思う。これとは別に、なぜか当時たくさん読んでいたのが文化人類学や社会学、現代思想、哲学の本で、たいてい読みにくかったり、難解であったりもしたけれど、色々と思考を巡らせたり、整えたりする機会を与えてくれた。そして、何よりこの数々の読書経験は、若く経験がないゆえに、狭い世界で硬直しがちだった私のアタマを柔らかくほぐしてくれ、自身の精神世界を広げていってくれた様に思う。
とかく私たちは見知らぬ言葉や文章に違和感を感じる。読みにくさを感じ、理解し難いと敬遠し、拒絶する。でも、この違和感こそが、自分が今まで知らなかった、味わうこともなかった世界の存在を教えてくれているのだと思う。グローバリゼイション、ダイバシティー、、、。IT技術、インターネットの進化によって、遥か遠方に生活している者同士が自由に情報交換ができる様になり、輸送の発展にともない、人も物も高速で移動することができる様になったこの世界は、今やずいぶんと小さくなったかの様であるが、今も私たちの外側には知らない世界が広がっている。
一冊の本を手にとって読むということは、直接的ではないとしても、言葉、文章を通じて、今まで知らなかった人の経験や思考に触れることであり、新たな経験をする事である。
そして、一枚の絵画を鑑賞するということも、一冊の本以上に貴重な体験をすることができるかもしれない。一枚の絵画と対峙し、鑑賞をおこなうということは、それは読書と同じ様に、ある芸術家の思考や経験に触れることでもあると思う。ただし、言うまでもなく、それは言葉のない世界を観ることであり、まさに既知(言葉)の外にある未知との遭遇である。美術館や博物館へ行けば、作品の下に解説が書かれていることもあるけれど、実際に絵画の上に書かれているのは作者のサインぐらい。絵画は読むものではないのだ。絵画は鑑賞するものであり、鑑賞とは観て感じ、考え、自分の中に湧き上がる感情や言葉に目を向け、それを認識し、自分の内に想起された感想、解釈をつくりだすものである。
人間は生まれた時から言葉の網に捉えられると言った言語学者がいる。生後しばらくすると、人は全ての思考を言葉を使って行う。私たちはこの世界の物事をカメラの様には捉えられない。私たち人間にはただ『読む』こともただ『観る』こともできない。読書も絵画の鑑賞も、ただ目に捉えることだけで終えることは出来ず、今読んだ、観た情報を無意識のうちに自らの意識の中に落とし込んで再認識し、私たちそれぞれの中にある限られた言葉を使って、理解とか解釈といった再創造を自身に迫るのである。安易な言葉で片付けようとする者もいるだろう。関心がなければ言葉にもせず、一瞥して素通りする者もいるだろうか。自分の経験、思考からは理解できない、解釈に苦しむ一冊の本、一枚の絵画に理解しがたい苛立ちを感じたり、その不快や不安から逃げ出したくなるけれど、これこそが未知の世界がそこにあるのだと言う知らせである。この苛立ち、不快や不安は無意識に、自らの世界の限りや足りなさを突きつけているのだ。
私たちそれぞれの言葉(思考)には限りがあり、だからその限りを超えるため、自らの中に新たな言葉を得るために、創り出すために一冊の本を読み、一枚の絵画を観ることに意味があり、価値がある。そこで得た経験は、きっと自らの世界(=言葉、思考の)の網を破り、まだ見知らぬその外側の世界へと私たちを導いてくれるだろう。
ちょっと難解な一冊に触れること、言葉にならない芸術作品に触れることは、時に不安や苦痛を伴うこともあるかもしれない。でも、この二つは、少なくとも実際に私たちを傷つけたり、痛めつけたりしないのだから、暫し我慢もして対峙してみよう。嫌なら途中で投げ出したって良い。かく言う私も途中で投げてほったらかしにしていた本があるし、関心のない(気持ちが動かされない)芸術世界もある。でもいつかまた対峙しよう。
最初はわかりやすい、興味のあるジャンル、好きな作品でもいい。タイパやコスパなどと言った経済効率ばかり求められる今だからこそ、まだ見知らぬ一冊の本に、一枚の絵画にゆっくりと時間をかけて向き合いたい。
暑い夏は涼しい図書館で、美術館や博物館で、未知の世界に触れるのも良いかと思う。