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2025年10月 9日 (木)

私の鑑賞の極意

友人が藤田嗣治の展覧会に訪れたと連絡があった。私の知っている藤田嗣治の技法や彼の人生の有様を伝えると、『なーんだ、前もって聞いておければよかった』というから、絵画を鑑賞するということは情報を確認することではないよと伝えた。

いうまでもなく、絵画とは絵の具を使って行う表現である。そこに製作者の人生が反映していることもあろうが、その絵画を鑑賞するために、必ずしもその人の生い立ちや経歴を知る必要はない(もちろん、知りたいという気持ちも大切だと思うけれど)。展覧会へゆけば、そんなことも細かく丁寧に解説していることもあるけれど、絵画を鑑賞するということは、まずそれ自体と対峙をして、見て(できたら舐め回すように)、鑑賞者自らの心象に立ち上がってくるイメージや言葉と向き合うことがとても大切なことなのではないかと私は思う。そんなひとときを楽しんでほしい。

私は修復家であり、傷んだ絵画を治療し、少しでも長く保てるようにするために、絵画の構造やそこに使われている画材の性質をそれなりに知っているし、場合によってはその製作者の経歴や独特の癖や特徴も少なからず知っていることもある。それは私たちのような専門家や、研究者には必要なことであるが、一般に、絵画を鑑賞するために、その全てを知る必要はないと思う。美術館や博物館に足を運ぶ人の中には、売店で売っているカタログ、解説集を読みながら、あるいは絵画の解説をしてくれるレコーダー片手にヘッドホンをしながら、そういった情報を確認するように鑑賞をしている人が結構いるようだけれど、私はそれじゃあもったいないと思う。実にもったいない。

一枚の絵画をしっかりと、隅から隅までくまなく見てみよう。その絵画の中には『これこれこういう風に鑑賞をしなさい』などとはどこにも書いていない。書いてあるのはせいぜい作者のサインぐらいである。

大好きな音楽を鼻歌交じりで聞くように、そんな風にも気楽に自由に絵画を、芸術を楽しんでほしい。時に自分が鑑賞することを拒絶するような、そんな風に思う絵画、芸術に出会ったら、その拒絶が一体どこからやって来て、どんな風に感じたのか考えることも自らの鑑賞能力を育てる糧になるだろう。

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