芸術の境界
1917年、「ニューヨーク・アンデパンダン展」において、マルセル・デュシャンは『噴水(泉(男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした作品))』を出店し物議を醸した。既成の便器に誰ともわからぬサインをして出展したのである。
先日、久々に訪れたポーラ美術館では、ライアン・ガンダーの”ユー・コンプリート・ミー”という展覧会が開催されていて、会場には様々な言葉が記されたたくさんの黒いボールが展示ケースの中に陳列されていたり(各階のロビーには巨大なボールもあった)、会場一室の床いっぱいに子供が遊ぶブロックや小さなプラスティック製の人形、動物が所狭しと並べられていた。私は楽しく鑑賞したが、いったいこれを芸術と呼べるのかいささか疑問に思わなくもなかった。
私が思うに(理解するに)、デュシャンは芸術とそうでないものの境界について鑑賞者に問うたのだろう。『お前はこれを芸術と呼ぶのか』と。
インターネットの急速な発展は、プロの芸術家も、専門的な教育を受けていないアマチュア芸術家も、インターネットという同じ土台に立って自由に表現をし、発表できるようになった。今はコンピューターとネットにつなげる環境さえあれば、何でもかんでも発表し、表現ができるのだ。そんな中で、だからこそ、芸術とそうでないものを区別することが難しくなっているのではないかと思う。
人は様々なものに価値を見出す力があり、私たちは皆その能力を備えているのだろう。価値を創造できるとも言って良いだろう。その力こそが芸術の源となる。でも実際には、芸術というのは、誰かがそれは芸術であると認めなければ、認められなければ芸術たり得ない。ではいったい、誰が認めれば芸術となるのだろうか。それは芸術ではないと言えるのだろうか。あなたは、いったい誰が芸術と呼べば、それが芸術と確信できるのだろうか。それとも、それはあなた自身で見分けることができ、判断することができるのだろうか。ならば、その根拠はどこにあるのだろうか。
芸術とそうでない物の境界は何処?

