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2025年10月

2025年10月31日 (金)

芸術の境界

1917年、「ニューヨーク・アンデパンダン展」において、マルセル・デュシャンは『噴水(泉(男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt)」という署名をした作品))』を出店し物議を醸した。既成の便器に誰ともわからぬサインをして出展したのである。

先日、久々に訪れたポーラ美術館では、ライアン・ガンダーの”ユー・コンプリート・ミー”という展覧会が開催されていて、会場には様々な言葉が記されたたくさんの黒いボールが展示ケースの中に陳列されていたり(各階のロビーには巨大なボールもあった)、会場一室の床いっぱいに子供が遊ぶブロックや小さなプラスティック製の人形、動物が所狭しと並べられていた。私は楽しく鑑賞したが、いったいこれを芸術と呼べるのかいささか疑問に思わなくもなかった。

私が思うに(理解するに)、デュシャンは芸術とそうでないものの境界について鑑賞者に問うたのだろう。『お前はこれを芸術と呼ぶのか』と。

インターネットの急速な発展は、プロの芸術家も、専門的な教育を受けていないアマチュア芸術家も、インターネットという同じ土台に立って自由に表現をし、発表できるようになった。今はコンピューターとネットにつなげる環境さえあれば、何でもかんでも発表し、表現ができるのだ。そんな中で、だからこそ、芸術とそうでないものを区別することが難しくなっているのではないかと思う。
人は様々なものに価値を見出す力があり、私たちは皆その能力を備えているのだろう。価値を創造できるとも言って良いだろう。その力こそが芸術の源となる。でも実際には、芸術というのは、誰かがそれは芸術であると認めなければ、認められなければ芸術たり得ない。ではいったい、誰が認めれば芸術となるのだろうか。それは芸術ではないと言えるのだろうか。あなたは、いったい誰が芸術と呼べば、それが芸術と確信できるのだろうか。それとも、それはあなた自身で見分けることができ、判断することができるのだろうか。ならば、その根拠はどこにあるのだろうか。

芸術とそうでない物の境界は何処?

 

2025年10月 9日 (木)

私の鑑賞の極意

友人が藤田嗣治の展覧会に訪れたと連絡があった。私の知っている藤田嗣治の技法や彼の人生の有様を伝えると、『なーんだ、前もって聞いておければよかった』というから、絵画を鑑賞するということは情報を確認することではないよと伝えた。

いうまでもなく、絵画とは絵の具を使って行う表現である。そこに製作者の人生が反映していることもあろうが、その絵画を鑑賞するために、必ずしもその人の生い立ちや経歴を知る必要はない(もちろん、知りたいという気持ちも大切だと思うけれど)。展覧会へゆけば、そんなことも細かく丁寧に解説していることもあるけれど、絵画を鑑賞するということは、まずそれ自体と対峙をして、見て(できたら舐め回すように)、鑑賞者自らの心象に立ち上がってくるイメージや言葉と向き合うことがとても大切なことなのではないかと私は思う。そんなひとときを楽しんでほしい。

私は修復家であり、傷んだ絵画を治療し、少しでも長く保てるようにするために、絵画の構造やそこに使われている画材の性質をそれなりに知っているし、場合によってはその製作者の経歴や独特の癖や特徴も少なからず知っていることもある。それは私たちのような専門家や、研究者には必要なことであるが、一般に、絵画を鑑賞するために、その全てを知る必要はないと思う。美術館や博物館に足を運ぶ人の中には、売店で売っているカタログ、解説集を読みながら、あるいは絵画の解説をしてくれるレコーダー片手にヘッドホンをしながら、そういった情報を確認するように鑑賞をしている人が結構いるようだけれど、私はそれじゃあもったいないと思う。実にもったいない。

一枚の絵画をしっかりと、隅から隅までくまなく見てみよう。その絵画の中には『これこれこういう風に鑑賞をしなさい』などとはどこにも書いていない。書いてあるのはせいぜい作者のサインぐらいである。

大好きな音楽を鼻歌交じりで聞くように、そんな風にも気楽に自由に絵画を、芸術を楽しんでほしい。時に自分が鑑賞することを拒絶するような、そんな風に思う絵画、芸術に出会ったら、その拒絶が一体どこからやって来て、どんな風に感じたのか考えることも自らの鑑賞能力を育てる糧になるだろう。

2025年10月 7日 (火)

画用紙は波打ち変形する

版画や素描(画用紙)の波打ち、皺や折れなど変形を修正してほしいと相談を持ち込んでくる人は多い。先日はある文具店(額を扱っている)から問い合わせがあり、額装のため預かった版画作品が預かり先の店内で保管しているうちに波打ち変形したと顧客からクレームがあったという。顧客が言うには、自分の家で展示している際には変形は生じておらず、綺麗に平らな状態であったそうで、店舗の空調管理はどうなっているのかと指摘されたようだ。
顧客の家は一体どんなに高度な空調設備を持っているのだろう。はっきり言おう。美術館でさえ、高級外車が数台買えるような高額の特別な展示ケースの中でもなければ、一日24時間同じ温度、湿度を管理することはできないのだ。そんな環境下に置けば、版画や素描、水彩画などを描いた画用紙も安定をしているかもしれないけれど、そうでなければ、どんな紙でもちょっとした温度の変化や湿度の変化で不規則に波打ったり、変形したりする。そもそも家から持ち出した所有者は、その店までの道中の環境をいかに保持していたのだろうか。この夏、外は大変に暑かった。

画用紙、紙は多孔質の高分子でできており、もともと弱い水素結合で成り立っているから、周りの環境の微妙な変化で水分を吸収し、また蒸発させる。これは紙本来の性質である。乾燥すると画用紙がわずかに持っていた水分が排水されて収縮し、湿度が上がれば水分を吸収して膨張する。そして、どんな紙であれ、紙の繊維の分布、堆積状態にはムラがあるから、紙の伸縮は常に不均一、不規則である。さらに言えば、版画も素描も、描いた後では画用紙の構造がまた複雑に変化をする。とくに絵の具をたっぷりと塗ったところ(吸い込んだところ)や全く塗っていないような余白があると、紙の伸縮に部分的な差異が生じる。
かの作品は額装をされていて、新しい額へと改装を依頼されたと聞く。もとあった額装の仕方、作品の固定方法も見せてもらったが、作品は額の内部で接着テープを使って6箇所(左右の四隅、長編の中央部分)を固定されており、なおかつ作品前に置かれたペーパーマットにより作品の周囲のみ圧迫されており、ペーパーマットの開口部と覆われた部分では変形の状態が異なっていた。作品の固定方法、額装にも問題があったのは明らかだと思う。

版画や素描のコレクターの中には、画用紙、紙の性質をよく理解し、多少の変形は自然であると受け入れている。美術館や博物館の学芸員も、この紙の性質を熟知しているものであれば受け入れる。だから版画作品や素描のように一枚の薄い画用紙に描かれた作品は、額装の際にはしっかり固定をすることなく、作品が額の中でズレたり外れたりしないように必要かつ最小限の固定はするけれど、ある程度自由に伸縮、変形ができるように装幀をするのである。

もう一度言おう。画用紙は波打ち、変形する。

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