歯科医と修復家の関係
私の工房には個人のコレクターも訪れてくる(事情により2027年まで個人所有の作品の受付を休止中)。彼らは修復を求めていろいろな物を持ってくるのだが、その持ち主は気になっていても、専門家の立場からよく調べて見ると、急を要するような状態ではなかったり、修復は控えた方が良い様なケースも少なからずあるものだ。
比較的簡単に額から作品本体を分離できる西洋絵画に比べ、東洋の書画はたいてい装幀(装飾)の材料が作品本体(画用紙や画布)と接着剤で固定されて一体になっている。こういった作品はたとえ損傷が小さくても、いざ修復をしようとなると、結構大掛かりな解体や再組み立てが必要となることが多いし、そうなると手間も費用も大きくなる。だから、取り扱いが困難なほど痛んでいたり、容易に損傷が大きくなる様な早急に対処すべき問題がない場合は、修復の保留を促したりするのだけれども、こちらで断るまでもなく、見積の金額を見て、早々に顧客自身から処置を断られることもある。一見どんなに小さな損傷に見えていても、多くの時間と手間を必要とする私たちの仕事である。
話は変わって数年前のこと。左上の奥歯に痛みを感じるようになり、私は久しぶりに歯科クリニックに行った。実はこの歯、10年余り前に金属の詰め物が施されていたのだが、深部へ至る二次虫歯が認められて再治療となった。神経が残せるかどうか微妙なところだということで、初診日は傷んだ部分を削り取って仮の詰め物をし、少しの間様子を見てほしいと返されたのだけれど、しばらくするとまた痛みを感じはじめ、結局は神経を取り除く(歯髄の除去処置。跋髄【ばつずい】というらしい)ことになり、あらためて金属を被せてもらった。その後は数年経った今も痛みもなく安定している。
このクリニックの院長先生に聞いた話。歯というものは再石灰化という再生機能はあるものの、大きく欠けたり虫歯になったりすると、皮膚や他の臓器のようには再生できず、元に戻るようなことはないそうである。とくに歯髄は歯の健康を維持するために重要な組織で、これを取り除くと歯が『死』んだも同然になるため、歯科医は歯髄の取り扱い、跋髄には慎重になるようだ。かの先生も、私の年齢も考えて、できることなら残したかったと言っていた。
この歯科医の話、どこか私たち修復家の仕事にも通じるような気がする。私たちの扱う芸術作品も、歴史資料も皆、傷ついたり壊れたりすれば、自然にに戻ることはなく、放っておけば悪くなる一方である。それを長く残すためには必要に応じて人の手を加えなければならないが、それはこの世に一つしかない、失ったら二度と手にすることもできない大切な物だから、たとえ修復という名の善意の行為であったとしても、そこから何かを取り除いたり、何かを加えたりすることについては同じように慎重に考え、行動する。歯医者と比べて少しだけ気が楽なことといえば、作品(患者)が痛いとか、苦しいとか訴えてこないことぐらいだろうか。いや、本当はそれもあったほうが処置しやすいかもしれない、、、。
私の顧客には専門的な知識や経験を持つ人もいれば、そうでない人もいるので、事前に可能な限り、所有者、管理者の経験や知識をうかがい、修復する作品、資料の利用方法、展示場所や保管する場所の環境を聞いたり、見たりすることを大切にしている。こういった情報を得ることは、修復の方針にも影響するし、修復後の寿命にも大きく関わると思う。そういった状況を全く知らぬまま、作品にとってどれだけ良かれと思う処置をしたとしても、その後の取り扱いが悪かったり、保管環境が悪いがために、思いのほか早く再修理となることもあるかもしれない。それは修復を依頼した人々にとっては嬉しいことではないだろう。
私たちは遥かな年月を経てきた物を修復するから、その芸術面も歴史面も考えて、作品や資料の現状をできるだけ変化させることなく、可能な限り保護しようと考えている。もちろん、所有者の希望は優先事項として考えなければならないけれど、たとえ劣化した材料、傷んだ材料であっても、そこに少しでも価値が見出せる(例えば製作者自身が使ったオリジナルの材料である場合)ようならば、できるだけ取らずにおこうと考えている。そうして常に必要かつ最小限の処置を行うことに努めているが、全てのケースにおいて同様に対応できるものではないし、必ずしも最小限の修復処置が良い修復とはならない。
色々な状況を考慮した上で、むやみに手を出さず、現状を維持した方が良い場合もあるし、それこそ思い切ってきちんと手を入れた方が、処置の後に所有者や管理者が安心をして作品が取り扱える様になることもある。その結果として、修復した作品がより長く保てるならばそれも悪くない選択だと思う。
けれどもその判断をすることがとても難しい修復家の仕事である。
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