文化財を守り残すための原動力
人は一枚の絵画を前にして、常に解釈に挑み、理解しようとする。きっとそうさせる、そうせざるを得なくしてしまう芸術作品なのだと私は思う。そして、芸術作品は製作者の元を離れ、また誰かの目にさらされ、製作者の意図を超えて様々な解釈がされ、様々な意味や価値が与えられてゆく、、、。
『個人の意識のうちで再創造や再認識がされていない限りは、芸術作品はただ潜在的な意味においてのみ芸術作品であるに過ぎない』『修復の理論』チェーザー・レブランディ
『修復の理論』を著したチェザーレ・ブランディは、芸術作品は個人の意識のうちで再創造や再認識がされて芸術作品となり得ると言っている。言い換えるならば、芸術作品は私たち人間の意識の中で完成するということであり、そうであるとすれば、それは人の数だけつくられるということになる。
人は一枚の絵画に新たなイメージを与え、その作品が本来持っていた文脈に影響を及ぼしたり、存在の意味すら変えてしまうこともある。昼間の風景を描いていたことがわかっているレンブラントの夜警、信仰の対象であった宗教絵画や仏像が美術品としてガラスケースに収められて鑑賞されるなど、公共施設の中でもそんな再創造や再認識が認められているのかと思う。
本来はその作品を守るため、延命させるはずの修復という行為もまた、その作品に元あった何かを取り除いたり、元はなかった何かを加えることで物理的に作品を変化させるから、処置によっては作品の姿形、見た目にも変化を与え、後の再想像、再認識に影響を及ぼすだろう。ヨーロッパでは大作の修復がなされるたびに、いろいろな批判が上がってくるようであるが、しかるべき専門家に仕事をさせずに、破壊や修復の失敗を招いたような例は除いて、修復という行為は必ず、施主や顧客の要望に応じて行われるものであり、それが個人であれ、博物館や美術館などの公共の施設であれ、あるいは修復家であれ、誰かがいま再創造、再認識した価値、そこに望まれるあるべき姿形の回復や保護、延命を追求するものである。
私たちは各々に一枚の絵画に多様な意味や価値を見出すこともできるが、一方では狭義で自分勝手なイメージを作り出し、その存在の意味、あるべき姿を追求し、特定しようとする。実は、この人の思考、運動こそがブランディの言った再創造であり再認識の正体なのではないだろうか。私たちは時の流れの中で、その経験の中で常に変化をしながら、この再創造、再認識を繰り返し、一枚の絵画に今日また新しいあるべき姿形を求め、与えててゆく、、、。
そしていつかまた一枚の絵画の存在が危ぶまれる時、修復が必要となった時には、それを守ろう、残そうとする人の再創造、再認識が必要となる。それがあって一枚の絵画に保護と延命のチャンスが与えられ、さらに未来の再創造、再認識の可能性をもたらしてくれる。今日またおこなわれる人々の再創造、再認識が、広義な意味での文化財を守り、未来に残す原動力ともなっているのだと私は思う。
『真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ。』 マルセル・プルースト
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