誰のために修復をするのか
日本では専門家の行動に異を唱える人が少ない様で、修復された作品が公表された後に、批判される様なこと見たり聞いたりしたことが少ない。私が所属する研究団の発表会でも、かつては結構激しい質疑や応答があった(エキサイティングであった)ものであるが、最近は皆大人しく、行儀よく発表を聞いている印象である。
ヨーロッパでは絵画や彫刻が修復をされ、それが新聞やテレビで公開されるや、様々な批評がされて話題となる。先日友人の志村さんからお知らせいただいたセビリアの聖母像の修復プロジェクトも、修復処置後の印象が大きく変わってしまったことで、市民から激しい非難の声が上がっているという。彼が送ってくれた記事を読む限り、それなりの立場の専門家が修復を施した模様であるが、その修復の方向性に問題があった様だ。
私は最近、芸術作品(それが宗教的なものであったとしても)にとって一番重要なのが、その作品を如何様にも解釈できる多義性があることと考えているが、芸術作品や工芸品、歴史的資料でも、それを所有したり管理したりする人々、社会に長く大切に利用され、守られていると、それはいつか特別な存在意味を持つ様になり、彼ら(だけ)にとってのあるべき姿形、独特なイメージの様なものが生成されて、さらに年月を経てそのイメージはより強いものとなることがある様だ。それはいつしか地域性や風習、宗教などが色濃く反映した彼ら自身のアイデンティティーや歴史の支えとなり、証明にさえもなってゆく、、、。
そして、時として人々の、社会の抱いているイメージが、私たち修復家の様な専門家や科学者、歴史学者の様な学術経験者、外来者からは理解し難いものとなっていたり、専門家がその立場から対象を解釈して見出す価値や意味、専門家がこうあるべきと思う姿形と異なってくることがある様にだ。
いったい、そんなことがあるのだろうかと不思議に思うのだけれど、あるいは修復を行う者ががそういったことを知らずに作業を進めたか、それとも顧客と修復を行う者との間のコミュニケーションの不足が招いた修復結果だったのか。はたして、修復を行った専門家達は、非難をされても『専門家として正しいことをした』と訴えるのだろうか。もしそうするならば、修復を行った者たちは、専門家としてこの修復プロジェクトに追求したいこととして、修復の指針とか方針を前もって修復の発注者らに伝え、理解を求めていたのか。いいや、多分そういったコミュニケーションを怠ったに違いあるまい。
聖母像の所有者や管理者の、彼らなりの『正しい修復』のイメージが修復関係者達に全く伝わっていなかったとすれば、それはそれで、とても残念なことだと思う。しかし、一方では、修復の発注者もまた、修復を実施する者たちに自分たちが大切にする『正しい修復』のイメージを伝えることができなかった様に思う。その努力も怠ったのだろう。
この修復は一体何のために行われたのであろうか。修復家ら専門家や科学者、歴史学者の様な学術経験者(外来者)の理想のあるべき姿(彼らなりに正しいと思うこと)を追求することが目的だったのか、聖母像の所有者や管理者、教会の信者のために行われるはずの修復であったのだろうか?
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