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2025年7月

2025年7月21日 (月)

未知との遭遇

私は20代の頃から40代にかけて、毎月数冊の本を欠かさず読んでいた。文化財の保存や修復に関する書籍などなかなか見当たらなかった頃(現在でも日本語で書かれた物、翻訳されたもの含めて極めて少ない)、私の仕事に関係がありそうな本、役立ちそうな本を片っ端から読んだ。中学生や高校生向けの化学の本、工芸品や絵画の技法書は、直接的に役立つ情報も多く得られたかと思う。これとは別に、なぜか当時たくさん読んでいたのが文化人類学や社会学、現代思想、哲学の本で、たいてい読みにくかったり、難解であったりもしたけれど、色々と思考を巡らせたり、整えたりする機会を与えてくれた。そして、何よりこの数々の読書経験は、若く経験がないゆえに、狭い世界で硬直しがちだった私のアタマを柔らかくほぐしてくれ、自身の精神世界を広げていってくれた様に思う。

とかく私たちは見知らぬ言葉や文章に違和感を感じる。読みにくさを感じ、理解し難いと敬遠し、拒絶する。でも、この違和感こそが、自分が今まで知らなかった、味わうこともなかった世界の存在を教えてくれているのだと思う。グローバリゼイション、ダイバシティー、、、。IT技術、インターネットの進化によって、遥か遠方に生活している者同士が自由に情報交換ができる様になり、輸送の発展にともない、人も物も高速で移動することができる様になったこの世界は、今やずいぶんと小さくなったかの様であるが、今も私たちの外側には知らない世界が広がっている。
一冊の本を手にとって読むということは、直接的ではないとしても、言葉、文章を通じて、今まで知らなかった人の経験や思考に触れることであり、新たな経験をする事である。

そして、一枚の絵画を鑑賞するということも、一冊の本以上に貴重な体験をすることができるかもしれない。一枚の絵画と対峙し、鑑賞をおこなうということは、それは読書と同じ様に、ある芸術家の思考や経験に触れることでもあると思う。ただし、言うまでもなく、それは言葉のない世界を観ることであり、まさに既知(言葉)の外にある未知との遭遇である。美術館や博物館へ行けば、作品の下に解説が書かれていることもあるけれど、実際に絵画の上に書かれているのは作者のサインぐらい。絵画は読むものではないのだ。絵画は鑑賞するものであり、鑑賞とは観て感じ、考え、自分の中に湧き上がる感情や言葉に目を向け、それを認識し、自分の内に想起された感想、解釈をつくりだすものである。

人間は生まれた時から言葉の網に捉えられると言った言語学者がいる。生後しばらくすると、人は全ての思考を言葉を使って行う。私たちはこの世界の物事をカメラの様には捉えられない。私たち人間にはただ『読む』こともただ『観る』こともできない。読書も絵画の鑑賞も、ただ目に捉えることだけで終えることは出来ず、今読んだ、観た情報を無意識のうちに自らの意識の中に落とし込んで再認識し、私たちそれぞれの中にある限られた言葉を使って、理解とか解釈といった再創造を自身に迫るのである。安易な言葉で片付けようとする者もいるだろう。関心がなければ言葉にもせず、一瞥して素通りする者もいるだろうか。自分の経験、思考からは理解できない、解釈に苦しむ一冊の本、一枚の絵画に理解しがたい苛立ちを感じたり、その不快や不安から逃げ出したくなるけれど、これこそが未知の世界がそこにあるのだと言う知らせである。この苛立ち、不快や不安は無意識に、自らの世界の限りや足りなさを突きつけているのだ。

私たちそれぞれの言葉(思考)には限りがあり、だからその限りを超えるため、自らの中に新たな言葉を得るために、創り出すために一冊の本を読み、一枚の絵画を観ることに意味があり、価値がある。そこで得た経験は、きっと自らの世界(=言葉、思考の)の網を破り、まだ見知らぬその外側の世界へと私たちを導いてくれるだろう。
ちょっと難解な一冊に触れること、言葉にならない芸術作品に触れることは、時に不安や苦痛を伴うこともあるかもしれない。でも、この二つは、少なくとも実際に私たちを傷つけたり、痛めつけたりしないのだから、暫し我慢もして対峙してみよう。嫌なら途中で投げ出したって良い。かく言う私も途中で投げてほったらかしにしていた本があるし、関心のない(気持ちが動かされない)芸術世界もある。でもいつかまた対峙しよう。

最初はわかりやすい、興味のあるジャンル、好きな作品でもいい。タイパやコスパなどと言った経済効率ばかり求められる今だからこそ、まだ見知らぬ一冊の本に、一枚の絵画にゆっくりと時間をかけて向き合いたい。

 

暑い夏は涼しい図書館で、美術館や博物館で、未知の世界に触れるのも良いかと思う。

2025年7月17日 (木)

文化財を守り残すための原動力

人は一枚の絵画を前にして、常に解釈に挑み、理解しようとする。きっとそうさせる、そうせざるを得なくしてしまう芸術作品なのだと私は思う。そして、芸術作品は製作者の元を離れ、また誰かの目にさらされ、製作者の意図を超えて様々な解釈がされ、様々な意味や価値が与えられてゆく、、、。

『個人の意識のうちで再創造や再認識がされていない限りは、芸術作品はただ潜在的な意味においてのみ芸術作品であるに過ぎない『修復の理論』チェーザー・レブランディ

『修復の理論』を著したチェザーレ・ブランディは、芸術作品は個人の意識のうちで再創造や再認識がされて芸術作品となり得ると言っている。言い換えるならば、芸術作品は私たち人間の意識の中で完成するということであり、そうであるとすれば、それは人の数だけつくられるということになる。

人は一枚の絵画に新たなイメージを与え、その作品が本来持っていた文脈に影響を及ぼしたり、存在の意味すら変えてしまうこともある。昼間の風景を描いていたことがわかっているレンブラントの警、信仰の対象であった宗教絵画や仏像が美術品としてガラスケースに収められて鑑賞されるなど、公共施設の中でもそんな再創造や再認識が認められているのかと思う。
本来はその作品を守るため、延命させるはずの修復という行為もまた、その作品に元あった何かを取り除いたり、元はなかった何かを加えることで物理的に作品を変化させるから、処置によっては作品の姿形、見た目にも変化を与え、後の再想像、再認識に影響を及ぼすだろう。ヨーロッパでは大作の修復がなされるたびに、いろいろな批判が上がってくるようであるが、しかるべき専門家に仕事をさせずに、破壊や修復の失敗を招いたような例は除いて、修復という行為は必ず、施主や顧客の要望に応じて行われるものであり、それが個人であれ、博物館や美術館などの公共の施設であれ、あるいは修復家であれ、誰かがいま再創造、再認識した価値、そこに望まれるあるべき姿形の回復や保護、延命を追求するものである。

私たちは各々に一枚の絵画に多様な意味や価値を見出すこともできるが、一方では狭義で自分勝手なイメージを作り出し、その存在の意味、あるべき姿を追求し、特定しようとする。実は、この人の思考、運動こそがブランディの言った再創造であり再認識の正体なのではないだろうか。私たちは時の流れの中で、その経験の中で常に変化をしながら、この再創造、再認識を繰り返し、一枚の絵画に今日また新しいあるべき姿形を求め、与えててゆく、、、。
そしていつかまた一枚の絵画の存在が危ぶまれる時、修復が必要となった時には、それを守ろう、残そうとする人の再創造、再認識が必要となる。それがあって一枚の絵画に保護と延命のチャンスが与えられ、さらに未来の再創造、再認識の可能性をもたらしてくれる。今日またおこなわれる人々の再創造、再認識が、広義な意味での文化財を守り、未来に残す原動力ともなっているのだと私は思う。

『真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ。』 マルセル・プルースト

 

2025年7月16日 (水)

何事もなかったかの様に 

油彩画やアクリル絵画など、現代絵画を中心に修復されている修復家の土師広さんは、都内美術館でおこなわれたあるトークイベントの中で、我々がおこなう修復とは、預かった作品を『何事もなかったように』返却することが理想であると話されていたことが印象に残っている。とてもうまく言ったものだ。
『何事もなかったように』という表現は、いささか具体性を欠く言い方ではあるが、広く一般には、修復に出した作品のどこが処置されたのかもよくわからず、まるでそれが元あったように違和感なく見える様な事なのだろう。でも、多くの人々にとっての修理とか修復のイメージは、かつて見ていた記憶にある姿形であるとか、そこに想像する『元』の状態への追及であり、彼らが心象に作り出したあるべき姿が回復されることだと思う。


私は今日まで数多の芸術作品を修復してきて、過去の修理、修復跡もたくさん見てきた。いま見ても良くできていると思う処置もあれば、目も当てられないもの、処置によってかえってダメージを受けていた様な作品もあった。過剰な洗浄により不自然に白くなった画用紙や画布、欠けた描画部のみならず、損傷部の周囲にはみ出した上塗り、加筆など、処置前の状態に戻すことのできない処置跡も少なくない。こういった処置も皆、損壊の改善や回復を追求しての処置だったのだろうが、いったい発注者はこの結果を受け入れたのだろうかと疑問にさえ思うケースもあった。
一方、現代の修復家は皆、処置する作品や資料に不要な変化を与えることなく、必要かつ最小限の処置に努めるようにしている。現代の修復においては、処置対象のオリジナルな材料、素材と修復に加えた補修材料を、処置した箇所をあえて区別できる様にもするし、さらに処置した部分を将来元に戻せる(処置前の状態に戻せる)様に工夫もしている。そして、こんな処置方法や考え方は、場合によっては『何事も無かったように』とはいかないこともある。
かつて私が修復した江戸時代の芝居小屋を描いた屏風絵は、観客や役者の顔が部分的に、あちこちと消失していて、この欠損部には代わりに別の顔が描かれていた。元の顔が残存している箇所と見比べれば、明らかにタッチが異なり、いわゆる漫画もどきのひどい顔が描かれていたので、管理者との相談のもと、製作後の加筆についてはすべて取り除き、取り除いた部分には元の記録もなかったため、残存するオリジナルの画用紙余白と同じ様な色に染めた紙を補填し、描画描線は一切せずに空白として修復を終えて返却をした。違和感があり、不快にも思われた加筆は修復により取り除かれたが、同部はカオナシの余白となった。これが個人の所有物だとしたら、現代の文化財の修復事情に明るくない施設の管理者であったなら、『顔』を残して欲しいと頼まれたかもしれない、、、。
私は近年、絵画の洗浄にも慎重な対応をしている。水彩画や素描、版画に使われる画用紙は、経年により黄色~褐色に変色する。額装されていても額材の質が悪ければ接触している箇所がまた変色をする。管理状態が悪ければカビ(フォクシング)も発生し、この際に、変色や汚損の除去が求められ、いわゆる洗浄とか漂白処置を迫られるのだが、この処置は図らずも画用紙に大きなストレスを与えるうえ、不可逆(処置前の状態には戻すことができない)な処置となる。顧客には詳しい説明に努めても、作品の鑑賞性の妨げとなれば、元のキレイな状態に戻して欲しいと修復が望まれ、私は『その状態を受け入れなさい』ということもできず、仕事を断るか引き受けるか悩むことになる。
油彩画は製作後表面にニスが塗られることがあるが、このニスが経年により褐色化するため、かつては褐色化が進むと当たり前の様に古いニスを拭い去り、新しい透明なニスを塗り直すことが横行していた。今でも変色したニスの取り扱いには賛否あり、処置をしては非難され、問題になる様であるが、この褐色化したニスを経年の、歴史の証として残そうとする考え方がある。日本では詫びとか錆びといった考えのもと、古びた茶碗やかけて継直(修理)した茶碗などに高い価値を見出す世界もあるけれど、先述の素描や版画の画用紙も、主題となる図像の大きな鑑賞の妨げにならなければ、同様に時の経過によって自然にまとった現象として、その歴史的価値として捉えることができるのだ。
人々が絵画や美術品に求めてくる修復のイメージ、修復の理想は人によって様々であり、所有者や管理者の知識や経験によっても異なってくる。日本では大きな話題になることがないが、ヨーロッパでは国家資格を持った専門家が修復に当たっても、その結果が非難されたり、社会的な問題となることがしばしばある。専門家のイメージする修復の理想と個人や社会の理想が乖離しており、社会への説明の不足や相互理解が足りないと思う。

何事もなかったの様にの『何事』とは劣化や汚損、損傷など『問題点』と置き変えることができるかと思うが、『問題点』の見方や考え方、『何事も無かった様に』することがどんな状態なのか、修復を依頼してくる人々のイメージを知りうるのも容易ではないし、私たちの理想を説明し、理解してもらうことも難しい。それは修復を求めてくる人々と対話を重ねることによって、初めて知りうることができ、理解することができることであり、土師さんの言っていること、考えていることとは違うかもしれないけれど、私たち専門家が安全と思われる方法で施術して、さらに顧客の理想や希望に寄り添った修復ができたのならば、それが『何事もなかったかの様に』修復依頼者のもとに納まったのであれば、うまく修復ができたという事なのだろうと、私は勝手に解釈をする。
私たちは一枚の絵画に芸術性や歴史性など、様々な価値を見出すことができる。いたずらに綺麗にしようとか、想像することしかできない『元』の状態への追及を避け、長い年月を経てきた作品ならばその老いた姿のままに保護し、そして少しでも延命させることができて、それが評価をされたなら、修復家として嬉しい限りだ。

 

土師絵画工房<https://hazekaigakobo.com>

トークイベント「修復の秘密」田口かおり、土師広

 

2025.07.16改訂

2025年7月13日 (日)

歯科医と修復家の関係

私の工房には個人のコレクターも訪れてくる(事情により2027年まで個人所有の作品の受付を休止中)。彼らは修復を求めていろいろな物を持ってくるのだが、その持ち主は気になっていても、専門家の立場からよく調べて見ると、急を要するような状態ではなかったり、修復は控えた方が良い様なケースも少なからずあるものだ。
比較的簡単に額から作品本体を分離できる西洋絵画に比べ、東洋の書画はたいてい装幀(装飾)の材料が作品本体(画用紙や画布)と接着剤で固定されて一体になっている。こういった作品はたとえ損傷が小さくても、いざ修復をしようとなると、結構大掛かりな解体や再組み立てが必要となることが多いし、そうなると手間も費用も大きくなる。だから、取り扱いが困難なほど痛んでいたり、容易に損傷が大きくなる様な早急に対処すべき問題がない場合は、修復の保留を促したりするのだけれども、こちらで断るまでもなく、見積の金額を見て、早々に顧客自身から処置を断られることもある。一見どんなに小さな損傷に見えていても、多くの時間と手間を必要とする私たちの仕事である。

話は変わって数年前のこと。左上の奥歯に痛みを感じるようになり、私は久しぶりに歯科クリニックに行った。実はこの歯、10年余り前に金属の詰め物が施されていたのだが、深部へ至る二次虫歯が認められて再治療となった。神経が残せるかどうか微妙なところだということで、初診日は傷んだ部分を削り取って仮の詰め物をし、少しの間様子を見てほしいと返されたのだけれど、しばらくするとまた痛みを感じはじめ、結局は神経を取り除く(歯髄の除去処置。跋髄【ばつずい】というらしい)ことになり、あらためて金属を被せてもらった。その後は数年経った今も痛みもなく安定している。
このクリニックの院長先生に聞いた話。歯というものは再石灰化という再生機能はあるものの、大きく欠けたり虫歯になったりすると、皮膚や他の臓器のようには再生できず、元に戻るようなことはないそうである。とくに歯髄は歯の健康を維持するために重要な組織で、これを取り除くと歯が『死』んだも同然になるため、歯科医は歯髄の取り扱い、跋髄には慎重になるようだ。かの先生も、私の年齢も考えて、できることなら残したかったと言っていた。
この歯科医の話、どこか私たち修復家の仕事にも通じるような気がする。私たちの扱う芸術作品も、歴史資料も皆、傷ついたり壊れたりすれば、自然にに戻ることはなく、放っておけば悪くなる一方である。それを長く残すためには必要に応じて人の手を加えなければならないが、それはこの世に一つしかない、失ったら二度と手にすることもできない大切な物だから、たとえ修復という名の善意の行為であったとしても、そこから何かを取り除いたり、何かを加えたりすることについては同じように慎重に考え、行動する。歯医者と比べて少しだけ気が楽なことといえば、作品(患者)が痛いとか、苦しいとか訴えてこないことぐらいだろうか。いや、本当はそれもあったほうが処置しやすいかもしれない、、、。

私の顧客には専門的な知識や経験を持つ人もいれば、そうでない人もいるので、事前に可能な限り、所有者、管理者の経験や知識をうかがい、修復する作品、資料の利用方法、展示場所や保管する場所の環境を聞いたり、見たりすることを大切にしている。こういった情報を得ることは、修復の方針にも影響するし、修復後の寿命にも大きく関わると思う。そういった状況を全く知らぬまま、作品にとってどれだけ良かれと思う処置をしたとしても、その後の取り扱いが悪かったり、保管環境が悪いがために、思いのほか早く再修理となることもあるかもしれない。それは修復を依頼した人々にとっては嬉しいことではないだろう。
私たちは遥かな年月を経てきた物を修復するから、その芸術面も歴史面も考えて、作品や資料の現状をできるだけ変化させることなく、可能な限り保護しようと考えている。もちろん、所有者の希望は優先事項として考えなければならないけれど、たとえ劣化した材料、傷んだ材料であっても、そこに少しでも価値が見出せる(例えば製作者自身が使ったオリジナルの材料である場合)ようならば、できるだけ取らずにおこうと考えている。そうして常に必要かつ最小限の処置を行うことに努めているが、全てのケースにおいて同様に対応できるものではないし、必ずしも最小限の修復処置が良い修復とはならない。
色々な状況を考慮した上で、むやみに手を出さず、現状を維持した方が良い場合もあるし、それこそ思い切ってきちんと手を入れた方が、処置の後に所有者や管理者が安心をして作品が取り扱える様になることもある。その結果として、修復した作品がより長く保てるならばそれも悪くない選択だと思う。

けれどもその判断をすることがとても難しい修復家の仕事である。

2025年7月12日 (土)

所有者の責任

骨董品からオモチャまで、様々な物を鑑定するTV番組が長く続いているけれど、この番組名となっている『鑑定』とは名ばかりの様に見える。鑑定にどれだけ科学的な調査(より正確な鑑定には科学的調査が必要である)が行われているのか全くわからないし、この番組のキモは、市場においてどれだけの金銭価値があるかを業者が値踏みする(鑑定依頼者自身にも値踏みさせる)ことで、提示された金額に鑑定依頼者が一喜一憂する(させる)姿を見て楽しむことが主旨のTVショーかと思う。

長くこの仕事をしていると、たまに修復に持ち込んだ作品の価値や真贋をたずねてきたり、修復する価値があるかどうかを聞いてくる人がいるが、私の専門は作品の鑑定をすることではないし、その資格もない。私は絵画や美術品の市場にも関わっていないから、その市場価値もわからないので、こんなお客様にとって私はお役に立てないから、どこか他の機関なりなんなりを探して欲しいと、丁寧にお引き取りを願うようにしている。

そもそも美術品の市場価値などというものは株価に等しく、変動するのが当たり前で、決して絶対的な評価とはならない。その評価は場所、国や地域によっても大きく変わる。市場はまた需要と供給によって簡単に変化するものである。かの番組で表示される評価額は、かなり狭義な世界の中での価値判断と思うし、テレビなりのご祝儀的評価ともなってはいないだろうか。
もちろん、修復する価値があるかどうかを判断するのも私達修復家ではない。たとえその作品が無名の作家のものであっても、市場では価値のない物であっても、修復を望まれるならば、私は専門家として技術を尽くす。私にとって市場の価値はあまり意味を持たない。
とくに個人のお客様にたいしては、修復を依頼されると丁寧な説明をするように努めてはいるが、私の説明も悪いのか、見積もり金額を見て驚く人もいる。美術品や工芸品はただでさえデリケートなものが多いし、それが何十年も何百年もの年月を経ているならば、取り扱いはとても困難になる。たとえ小さな傷や穴を直すのにも結構な手間暇がかかるから、文化財(広義なな意味で)の修復という仕事の難しさを知らない人々にとっては、思いのほか大きな費用となるのかもしれないし、作品の価値と修復代金を量りにかける気持ちはわからないでもないけれど、、、。
しかし、自分の持っているものを、いたずらに市場価値のみで推し量ることはあまりにも寂しい。モノの価値を見い出す方法はもっと他にもあるだろう。まずは、もういちど、なぜ自分がそれを修復家のもとに持ち込んだのか考えてほしい。そもそも修復したいから、修復をする価値があると思っていたから、私たちを訪ねて来たのであろう。その価値は確かにその所有者自身が認めていたはずである。それが市場でいくらになるかはわからないが、修復費用も安いものとはならないが、あなたにとって十分な価値があったはずである。

作品の価値判断をすることは私たち修復家の務めではない。修復を依頼されれば、その道の専門家として修復の方針や方法を考え、決定することはあっても、修復するかどうかを決定することも所有者しかできない。それを修復し、保護、延命させることも、放置して朽ち果てるのを待つのも、売り払うことも、そのすべての決定権と責任は所有者にある。

どんな物でも大切にされ、長く残されるためには所有者が見出した価値こそが必要であり、その価値が見失われた時にその存亡が危ぶまれる

2025年7月 5日 (土)

取り去るものと加えるものと

何百年も前に制作された絵画や芸術作品には、劣化や損傷があることはもちろんであるが、必ず何らかの手入れが施されているものである。それは1回のみならず、また1箇所のみならず、地層のように幾重にも重ねられて、歴史の記述のように跡を残している。過去の処置には良い処置もあれば、適当にごまかすような処置もあるし、元の姿形を変えてしまうような、目も当てられないようなものもある。現代の修復においては、傷ついたり、欠損が生じた箇所にはその損傷領域に限定した処置をするが、過去の修復跡には健常な部分にまで処置が及んでいることが多く、かえって損傷を拡大させているような跡もよく目にする。

現在は可逆性、再現性(処置前の状態に戻せるようにすること)を重視して、修復に加える材料は後日安全に除去できるようなものを使ったり、除去できる工夫を施すが、過去の修復跡にはこういった対策、工夫も見られず、元に戻すことが困難なことも多い。
古い作品を修復する場合は、過去に加えられた修理材料も劣化していることが多いので、基本的には除去するが、現在に至るまで修復された作品を『通常』として長く利用してきた者にとっては、その除去が問題になることがある。かつて私が修復をした作品の中には、描かれた群衆の一部分が数カ所に渡って欠損しており、同部は他の紙で補填し、周囲の画風とは異なるタッチで『顔』が描かれていた。

私は顧客の要望に応じて、修復部分に限定して、途切れた線や欠けた色面に補助的な彩色を行い、鑑賞性の向上、いわゆる見た目の回復を図ることがあるが、描線の行方が不明であったり、想像を要するような描線や着色は避けるようにしており、『補助的な彩色』と記したように、私たちが行う処置は基本的に鑑賞性の弊害や負担とならないように、鑑賞時に視線が誘導されないよう、捕らわれないような彩色を行うことが目的であり、周囲に近似する色で染めたり、明らかにつながっていた線をつなぐ程度の、あくまで補助的な処置としており、基本的に『描く』ような行為も避ける。
しかし、この処置も、作品のあちこちに欠損があり、例えばその欠損部の全てに『顔』が書き直されているような場合には、それを取り除き、『顔』のない状態にした場合、『顔』のあった作品を長く見慣れてきた顧客にとっては修復に預けた作品が大きく変化することになり、場合によってはその作品の所有者や管理者、利用者に精神的な苦痛を与える可能性がある。もちろん、こういった場合には事前に顧客と十分な相談をするが、専門的な知識を持たない人にとっては、修復後の様子をイメージさせ、納得させることも難しい場合がある。

先のコラムでも記したが、ヨーロッパでは修復後の結果が批判されることが少なくない。変色したニスを除いて、きっと製作当初に近い綺麗な色彩が取り戻せたといって喜ぶ者もいれば、長い年月による風合いが損なわれたと怒る者もいる。時代により、政変や宗教改革によって不都合な部分を上塗りされたり、それを現在になって元どおりに戻しても、取り除いた上塗りの、ある歴史の記録が損なわれたという者もいる。日本でも、古い仏像を調べてみると、過去に修理されて異なった形態になるも、後日長きに渡って信仰の対象として祭られ、現在に至っては元に戻すことも難しい像があると聞いたことがある。第二次大戦の戦火を逃れたある絵画は、戦時中に木枠から外され、長く丸めて保管されていたためあちこちと絵の具がはがれ落ち、戦後しばらくして綺麗に修復されたが、ある学芸員は、修復しないで展示する意味もあったといっていたことをよく覚えている。
私はこのコラムで何度も記しているが、修復は人の創造物から何かを取り去り、加えるという行為であり、その創造物が人と社会に大きな影響を与えるからこそ、とても重要で、慎重な行動が必要とされる責任の重い文化財の修復という仕事である。

 

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製作後に加えられたどんなにひどい顔であっても、見慣れた顔がなくなることは、作品の所有者や管理者にとっての精神的負担や苦痛にさえになることがあるから取り除くことは慎重になる。

2025年7月 4日 (金)

誰のために修復をするのか

日本では専門家の行動に異を唱える人が少ない様で、修復された作品が公表された後に、批判される様なこと見たり聞いたりしたことが少ない。私が所属する研究団の発表会でも、かつては結構激しい質疑や応答があった(エキサイティングであった)ものであるが、最近は皆大人しく、行儀よく発表を聞いている印象である。

ヨーロッパでは絵画や彫刻が修復をされ、それが新聞やテレビで公開されるや、様々な批評がされて話題となる。先日友人の志村さんからお知らせいただいたセビリアの聖母像の修復プロジェクトも、修復処置後の印象が大きく変わってしまったことで、市民から激しい非難の声が上がっているという。彼が送ってくれた記事を読む限り、それなりの立場の専門家が修復を施した模様であるが、その修復の方向性に問題があった様だ。

私は最近、芸術作品(それが宗教的なものであったとしても)にとって一番重要なのが、その作品を如何様にも解釈できる多義性があることと考えているが、芸術作品や工芸品、歴史的資料でも、それを所有したり管理したりする人々、社会に長く大切に利用され、守られていると、それはいつか特別な存在意味を持つ様になり、彼ら(だけ)にとってのあるべき姿形、独特なイメージの様なものが生成されて、さらに年月を経てそのイメージはより強いものとなることがある様だ。それはいつしか地域性や風習、宗教などが色濃く反映した彼ら自身のアイデンティティーや歴史の支えとなり、証明にさえもなってゆく、、、。
そして、時として人々の、社会の抱いているイメージが、私たち修復家の様な専門家や科学者、歴史学者の様な学術経験者、外来者からは理解し難いものとなっていたり、専門家がその立場から対象を解釈して見出す価値や意味、専門家がこうあるべきと思う姿形と異なってくることがある様にだ。
いったい、そんなことがあるのだろうかと不思議に思うのだけれど、あるいは修復を行う者ががそういったことを知らずに作業を進めたか、それとも顧客と修復を行う者との間のコミュニケーションの不足が招いた修復結果だったのか。
はたして、修復を行った専門家達は、非難をされても『専門家として正しいことをした』と訴えるのだろうか。もしそうするならば、修復を行った者たちは、専門家としてこの修復プロジェクトに追求したいこととして、修復の指針とか方針を前もって修復の発注者らに伝え、理解を求めていたのか。いいや、多分そういったコミュニケーションを怠ったに違いあるまい。
聖母像の所有者や管理者の、彼らなりの『正しい修復』のイメージが修復関係者達に全く伝わっていなかったとすれば、それはそれで、とても残念なことだと思う。しかし、一方では、修復の発注者もまた、修復を実施する者たちに自分たちが大切にする『正しい修復』のイメージを伝えることができなかった様に思う。その努力も怠ったのだろう。

この修復は一体何のために行われたのであろうか。修復家ら専門家や科学者、歴史学者の様な学術経験者(外来者)の理想のあるべき姿(彼らなりに正しいと思うこと)を追求することが目的だったのか、聖母像の所有者や管理者、教会の信者のために行われるはずの修復であったのだろうか?

◉『失敗した美術品修復:意図だけが重要なのではない』

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