修復に求められるもの
私が文化財保存修復学会という研究団体に所属して間もない頃(1900年代の終わりころ)にある研究発表会で、文化財には修復ではなく、修理をするのだという発表者がいた。いわく、『修復』という言葉には『復』というような、ある意味元に戻すというような意味があるが、一方『修理』には理由を意味する『理』という文字があると。『理り』がなければそれを行なってはならないと。
現在でも文化財の修復に携わるものの中には、『修理』という言葉を使い、他と差別化を図ろうとする者もいるが、よく調べれば、もともと『修復』も『修理』も同じ意味を持つ言葉であり、『修理』という言葉の社会的な概念、通念には元に戻すというような意味は含まれるし、実際に文化財の修復においても、そういったことが全く行われないわけではない。私の古い友人であり、先輩は、『修復家』なら良いが『修理家』というのは如何なものかと、ちょっと皮肉っぽくいっていたのを覚えている。
確かに、私たちのような専門家と、それ以外の人では『修理』とか『修復』という行為に対しての捉え方、認識は異なるし、そこに求めるものにも差が出てくる。
文化財(広義な意味で、広く指定品以外も含めた芸術品、歴史資料として)を修復する私たち修復家は、とくに貴重なものを取り扱うので、それを確かに残すための方法として、対象を歴史的、科学的に『資料』『物質』として捉えることを重要視し、そこから得られる客観的な情報を可能な限り残そうと努めている。ヨーロッパあたりでは今でも、修復作業をする者に『おのれを出さないように』と説かれるらしい(一体そんなことが確かに出来るのだろうか)。
一方、その外側で芸術作品や歴史資料を管理、利用する人達には、対象の現状から今見える姿形に加えて、そこに想像される(あるいはそれを知っていた)傷つく前の姿や、経年によって変色する前の、風合いが変わる以前の、たとえば製作当初をイメージするような、そうあって欲しい、そうあるべき姿形を追求することが大切であったりする。
でも実際には、私たちのような専門家も、そういった社会的な『あるべき姿形』が無視できないのか、そもそも私たちの仕事自体が社会貢献としての役割が大きいからか、専門家の中にも、いいや、むしろ歴史的に、科学的にそれを追求する専門家だからからこそイメージするちょっと主観的な『あるべき姿形』があるように思う。
先述のヨーロッパでは、国が違えば、同じ国でも地域ごとに文化財修復の方針や手法に差があるし、そのためか、当然修復の結果が異なってくるから、今日でも重要な作品は修復するたびに高く評価されたり、非難を浴びたりしている。
このコラムでも何度か取り上げたレンブラントの『夜警』(De Nachtwacht / 『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊』)は現在アムステルダムの美術館で修復中であるが、この作品は『夜』の場面を描いたわけではなく、経年によって表面に塗られたニスが変色して暗い印象になったため『夜警』とされたそうであるが、この作品を所蔵する美術館が『夜警』(De Nachtwacht)と紹介していることはとても興味深い。彼らは『夜警』こそが『あるべき姿形』と捉えているのではないだろうか。『修復の理論』を記したチェザーレ・ブランディは、経年によって纏った古色や変質、変色したニスをして『弱音器のような』という表現をしていたが、『夜警』のそれは、『弱音器』としての機能をもはや超えて、絵画の文脈を無視して、本来とは異なる意味合いや価値を与えている。これをある種の想像とか、ファンタジーとは呼べないだろうか。文化財の保存や修復には『理り』以外にも、ファンタジーが必要なこともあるのではないだろうか。ファンタジーを想起させる文化財でもある。
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