自分を消そうとも
私の仕事仲間の中には、海外で学び、現地で実務経験を積んできた者もいる。とくにヨーロッパで修復術、修復学を学んできた者は皆、修復家(ヨーロッパで学んできた人は修復士とか修復師と表すことが多い)にとって最も大切なことは『自分を出さない』とか『自分を消す』ことだと教えられたと話す。
私は修復を望まれた作品(ここでは一枚の絵画作品としよう)を預かった瞬間から、その修復が完了するまでの間、基本的にその芸術性を味わうような鑑賞はしない。作品を預かって、まず行うのは全体の構造と痛み具合の確認で、これから修復を行う際に注意すべきポイントを特定する。その後計測と写真撮影を行って、さらに画用紙や画布、絵の具、装幀など、そこに使われている材料素材の個々、細部の状態、症状をつぶさに調べ上げてゆく。
『修復の理論』を記したチェザーレ・ブランディは『修復は、芸術作品の物質的側面に対してのみ行われる』と言っているが、これから作品を修復する私にとって必要なのは、ある材料から作られた絵画という物(物質)の成り立ちを、その現状を理解をすることであり、そのための調査、観察を行うのである。この時、私は作品の美的な側面、芸術性には目をそらしているというか、およそ意識をしない。ある意味、思考を停止させていると言ってもいいかもしれない。私は鑑賞ではなく観察と記したが、一枚の絵画が湛えている美的側面、見る者によって多様な解釈ができ、数多の意味が生じるその芸術性はいったん棚上するか蓋をしておくようにして、観察の結果、収集した情報に基づいて、機械的に淡々と修復処置を進めてゆく。こう言った一連の客観的(と思っている)行動が、『自分を出さない』とか『自分を消す』ことに通じるだろうと私は思う。
しかし、実際に修復作業を進めてゆくと、『自分を出さない』とか『自分を消す』ことに徹することもなかなか難しい。ひとたび作品の修復作業を始めれば、必ず手加減やさじ加減といったような繊細なコントロールが必要になるものである。そしてそれは修復家自身によって行わなければならない。現在のように科学技術が進んでいて、いま修復する一枚の絵画をどれだけ精密に分析をしたとしても、どんなに調査、観察を尽くしても、そこで得た情報は実処置の手加減やさじ加減、その調整率を示してはくれない。だから、どんなにたくさんの情報を得たとしても、自身の思考を作動させ、意図的に様々な調整をしなければならない場面は必ずやってくる。
そもそも芸術作品に何らかの手を加えるのだから、その美的側面、芸術性に一切関わらずにおくこともできいない。それは絵画表面に糊付けされたシールの様なものではないし、実際に分けることも切り離すこともできないものである。
ここで、唐突ながら、現象学者のエトムント・フッサールが示した絵画鑑賞のあり方を紹介する。彼は絵画の鑑賞を以下の三段階に分けて考えた。
第一の層 像物体 |
画用紙、絵の具といった絵画の材料やその状態認識 =絵画以前、そこにある画材、成り立ちを見ること。客観的な鑑賞、観察 |
第二の層 像客体 |
画用紙、絵の具といった絵画の材料やその状態認識 =絵画以前、そこにある画材、成り立ちを見ること。客観的な鑑賞、観察 |
第三の層 像主題 |
作中世界の認識=描かれた物語やテーマを意識すること。主観的な鑑賞のはじまり |
貴重な芸術作品の修復に際しては、その作品の現状をできるだけ変化させないように、最小限の修復処置という約束のもとに処置を進める。しかし、どこまで処置するか、またはしないかというレベルを決定することもまた難しい。それは基本的には先に行った観察を頼りに行うのだけれど、所有者や管理者の希望によって左右されるし、処置する作品の性質、劣化や損傷の状態によっても手加減を余儀なくされる。この加減はその作品全体(増主題を含んだ)に関わる場合もあるから、フッサールの考えに照らせば、上記の第三の層、像主題の鑑賞を横断して、いよいよそこに湛えている美術的側面、芸術性も意識しなければならなくなることがあるかと思う。
私は一枚の絵画の修復が終わりに近づいた頃、少しの間、一鑑賞者として作品を鑑賞するようにしている。素直に作品に向かい、修復後の状態がどんな風に見えるのかを鑑賞して、私が処置した箇所に大きな違和感があったり、視線が誘導されないか確認する。修復家としての経験を積んだ私は、きっとその経験を持った鑑賞者になることしかできないし、ついつい重箱の隅をつつくような鑑賞となりがちではあるが、ここで意識して作品(修復の着地点、終了地点の)芸術性を味わうような鑑賞するようにしている。
一枚の絵画における美術的側面、芸術性は、その解釈のカタチは、私たちのような専門家と専門外の人では異なるだろうし、たとえ同じ専門家同士であっても、その人の経験や知識によって大きく変わり、多義的で捉え所のないものである。そこには数多、多様な解釈の可能性があり、それが一枚の絵画の湛えている美術的側面、芸術性であると私は考えている。『修復家の理論』を記したチェザーレ・ブランディは同著の中でこんなことを言っている。
『各個人の意識世界においてはじめて芸術作品たりえるのである』(『修復の理論』p.29)
一枚の絵画が湛えている(潜在している)美術側面とか芸術性というものは、その多義性を理解するほどに、わからない、捉えどころのないものである。そしてブランディは、それが個人の意識のうちで認識されるものだと言っている。ならばその美術側面とか芸術性というものは、人の数だけあるということである。
私たち修復家は、そんな捉えどころのない一枚の絵画を修復しなければならない。私はその美術的側面を芸術性を認識することができるが、それは数多ある可能性のうちの一つに過ぎない。だから私たち修復家は、一枚の絵画を前にして、その捉え難い美術的側面、芸術性から視線をそらし、物性や物としての絵画のみを観ることでやり過ごし、さらにを自分を消した(意識をしない、思考しない)ことにして、辛くもその絵画を捉え、修復という施工、施術を可能としているのだろう。ブランディは『物質はイメージの顕現に奉仕するものである』と言っているが、この言葉は修復家にとってささやかな救いとなるであろうか。私たち修復家には物質に頼り、奉仕するしか確かな手立てがない。
修復という行為の全てにおいて修復家の自己判断、自己責任が要求されるものではないが、貴重な芸術作品、広く文化財修復の現場の最前線に立って、実際に何かを取り除いたり、加えるような様々な決定をしなければならない者の責任は大きい。『自分を出さない』とか『自分を消す』ことも『最小限の修復処置(介入)』などという約束も、捉えどころのない芸術作品をいかに捉え、よく保護し、より延命させるためのベターな手段、方法なのだろうとは思うが、それはこの職務の責任の重さから、その重さをいささかながら軽減する(軽減するように感じることのできる)免罪符としても機能しているのではないだろうか。そうして少しでも安心をしながら作業を進めることのできる修復家なのかもしれない。
実際の処置ががどんなにか少なかろうと、小さかろうと、その作品から何かを取り除き、加えた跡は、修復家の自分を出そうが出すまいが、消そうが消すまいが、その作品の生涯の痕跡としてさらに加えられ残っていく。その大きな責任を担う修復家の仕事なのかと思う。
参考:『東京藝大で教わる初めての美学』川瀬智之
『修復の理論』チェザーレ・ブランディ

