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2025年5月11日 (日)

芸術はエクリチュール

ヨーロッパにおいては、古くから話し言葉こそが発話者の真理により近いものとされ、書かれた言葉はその発話者の真理に遠く、話し言葉より劣るものとされてきた。話し言葉をフランス語でエクリチュール(écriture)といい、話し言葉をパロール(parole)という。

パロールは個人の表現として発話者が支配し、コントロール下に置かれる。それはより直接的で、たとえ聞き手がその言葉を誤認、誤解したとしても、正したり修正することが可能であり、より真理を伝えることができる(誤解されにくい)から優勢であり、一方のエクリチュールは書いたものが発話者(筆者)の元を離れ、あちこちを転々として、後に様々な解釈がされ、間接的で誤解もされる。だから真理から遠く離れてしまうため、より劣っているというのが伝統的な考え方であるが、ポスト構造主義の代表的哲学者の一人とされるジャック・デリダは、この二項対立の関係性に注目をし、パロールこそ真理の直接的な表現であり、優位性があるとすることを批判し、エクリチュールの役割に注視した。

デリダはエクリチュールの作者の意図を追求することをいったんやめて、書かれた言葉の作者の存在や意図にとらわれずに、なおその言葉を簡単に否定することなく、言葉自体に敬意を払うように真摯に向き合い、その自律性を尊重し、書き言葉が多様な解釈を生み出す可能性(例えば自発的な生命力のようなモノ)がある優れたものとして捉えてゆく価値あるものと考えた。それは誤読や誤認、誤解は悪であるという価値判断をいったん棚上げにして、パロールが正。エクリチュールが誤といった二項対立から距離を置いて、絶対的な何か(正誤、優劣といった答え、価値)をつくり出すのではなく、物事を柔軟に捉え、考える(考え直す)試みである。
今日もなお、私たちの周りには、白黒、正誤、優劣といった二項対立の世界が依然として、厳然としてあり、多くの人々がそこにとらわれ、決めたがり、決着をつけることから逃れられず、執着さえする。そしていったんその決着がつくと安堵してしまい、まるで引きこもりにでもなったかのように思考することをやめてしまう。例えていうならば、テレビのクイズ番組。どれだけ『答え』を知っているかで優劣がつけられる世界。でも、『正解』が出ればおしまいである。これは私たち修復家のような専門家の世界の中でも、同様のことが言えないだろうか。
デリダの言葉は硬直したり停止してしまった私たちの思考を刺激し、今一度思考しろ。その先に向かえと、未来へ一歩踏み出すための勇気や足がかりを与えてくれるように思える。

私は今、ポストモダン(ポスト構造主義)と呼ばれる哲学を学びながら、私が日々対峙する芸術作品や大好きな音楽、そして私が生業としている広く文化財の保存修復について思考をめぐらせている。
数百年前に描かれた絵画作品が目の前にある。この絵画の画家、製作者は話すわけじゃなく描いたのだけれど 、ある表現(話し言葉)の発話者自身であり、その制作意図、真理を持つ者であるが今はもう現存しない。かつて芸術家が存命の間は、自身の描画表現の意図や真理を他者に伝えることもでき、鑑賞者が誤解、誤認すれば、それを正すこともできたと考えると、画家、広く芸術家はパロール(発話者)と言えるのではないかと思う。 そして、芸術家がその意図や真理を描いた一枚の絵画、芸術作品(描かれた絵、表現された物)は、その製作後に製作者の元を離れ、他者の間を転々とし、様々な人々によって鑑賞されながら製作者の意図から外れ、離れて、様々な理解や解釈が与えられてゆく可能性があるという意味において、エクリチュールに置き換えることができるだろうと思うのだ。
かのレンブラント・ファン・レインの『夜警』(『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊』/ De compagnie van kapitein Frans Banning Cocq en luitenant Willem van Ruytenburgh)という作品は夜の場面を描いたものではないが、後日塗布されたニスが褐色化し、全体の印象が夜を表している様に見えるようになったことから『夜警』と呼ばれ、現在でも多くの人がそう認識している。これは経年による変化により人々に与えた印象が変化したとも考えられるけれど、誤解とわかった現在でもなお、多くの人々に『夜景』(オランダ語:De Nachtwacht=美術館自体がそう紹介をしている)として親しまれている。現在も偉大な作品として紹介される絵画の中には、作品の製作当初、画家の存命中にはヘタクソであるとか、キワモノとして認識されても、高い評価などされることなく、死後しばらくして高い評価を与えられるようになった作品も多い。芸術作品は解釈や理解が時を経て遅れてやってくることもある。
誰かの描いた一枚の絵画が製作されたあと、時間の流れや社会の変化の中で、ときには数奇な運命に出会い、書かれた言葉と同じように、その意味、解釈が変えられていった、加えられていった例は、探し出せばきっといくらでもあるだろう。
古典的な絵画の中には、神の教えや故事にちなんだ世界を表そうとした物語性の高い作品もあるが、そんな絵画でさえも、その意図や真理から離れて絵画自体を芸術作品として鑑賞することができる。そうして鑑賞をすれば、そこから得られる印象、感想はまた様々になるだろう。日本ではかつて信仰の対象、象徴であった仏像や殺戮の武器であった日本刀が、美術品として高く評価されている。これもまた、象徴や道具から美術品としての価値が見出されたものとして、解釈の変化が生じ、存在意味さえも大きく変えたものとしての一例となろう。そして、それを間違っているとか誤りであると言う人もきっと少なかろう。

こうして芸術作品を観て、考えてゆくと、それは書かれた言葉と同じかそれ以上に、芸術(広く人の創造物と言っていいか)はいつの時代も私たちに新たな解釈をさせ、様々な意味を想起させる。そんな余地を持ち、変化の可能性を秘めたエクリチュールとは言えまいか。そんな可能性を秘めているからこそ、私たち人類にとってとても大きな価値があり、貴重な芸術作品なのであろう。だから、きっと未来の人々に伝える価値があるのだろう。そんな芸術品を後世に長く残すことが求められる修復という仕事なのであろう。

 

ジャック・デリダ

<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80>

 

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