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2025年5月

2025年5月31日 (土)

文化財の『あるべき姿形』を考える

私は修復家として、大学が運営する博物館や資料館所蔵の芸術作品や歴史資料を取り扱うことが多いが、そのほかにも企業の所蔵作品や地方の施設に収められた歴史資料、そして個人所有の絵画や工芸品も修復してきた。それらは国宝でも、重要指定品でもないし、製作者さえ不明なものもあったけれど、いずれも貴重なものばかりで、秀逸なものもたくさんあった。
現在、国宝や重要文化財に指定されているものも、かつては誰かの所有物であったり、あるいは借金のカタに売り払われたり、捨てられたものさえあるくらいだから、私が修復した作品や資料の中にも、もしかしたらいつか指定品となるものがあるかもしれない。
広義な意味での文化財、素晴らしい芸術作品、貴重な歴史資料が美術館や博物館の外にもたくさんあって、在野の文化財、巷の文化財とでも言おうか、それはそれぞれに大切に利用され、守られている。

人々は今日も私たちに修復を求めてくる。でも、彼らが修復によって改善や回復させたいと思うものは、実際にはタイムマシーンでも手に入れぬ限り、消し去ることはできない傷痕であったり、製作当初のきれいな姿形であったりする。その修復対象は動植物のような再生能力を持たないから、傷ついた部分を、失った部分を元に戻そうと追求すれば、制作の当初には存在しなかった(現在手に入る新しい)紙や布、絵の具を使って塞いだり、埋めたりすることしかできないし、変色したニスや画用紙を洗浄すれば、それがたとえ劣化や変質というような悪化であったとしても、ある意味長い年月を経て生成された風合いの様なもの(変色して古びたような色彩=ある歴史の痕跡)を取り除くことになり、その作品や資料の現在の姿形を変えることになってしまう。それは巧妙な修復処置の結果により、顧客が喜び、満足する姿形とすることができたとしても、その行為は改善や回復ではなく、その処置の大きい小さいはあっても、強いて言ってしまえば改造とか改変となる。修復処置というのはそういう行為なのである。
そして、人はまた様々な物に価値を見出す。古びて欠けた茶碗、破れかけた映画のポスターに、セピア色になった写真や絵画にも愛着を覚え、壊れたものや痛んだものにも美しさを見出す。どんなに古くなっても、痛んでいようとも、そこからさえ高い価値を見出して来た人の歴史がある。その歴史の証が、広義な意味で文化財なのかと思う。
だから私たち修復家は、一般に広く考えられている、認識をされているような、例えば『元通りにする』といったような修理や修復とは一線を引いて、今、目の前にある物の現状をできる限り保護しようと考える。たとえ塵一つさえ、それが数百年も前のものならば、それを払い去ってしまったら、二度と手にすることはできないから。
でもその一方では、先述のように汚れも取り除き、どんな小さな傷も欠損も見えなくして、元のように綺麗に戻して欲しいと人はいう。彼らには彼らなりの価値あり、そこに『あるべき姿形』を見出しているから、それこそを保護し、修復して回復させたい。取り戻したいのだ。彼らにとっては、自身が見出したその『あるべき姿形』があるから、それを大切にすることができて、未来に残される可能性を作ってくれるのだ。

私たち修復家は物(物質)を物として、そのあるがままの現状を保護し、延命させることを最も大切な使命と考えているが、文化財の現状保存という概念も、ある意味、私たち専門家にとっての『あるべき姿形』の追求ということになるのではなかろうか。

それぞれの『あるべき姿形』間には溝があり、差異があるが、そこに優劣もつけ難いし、正誤など決められるものではない。それはそれぞれに文化財を守り、後世に残すために必要な『あるべき姿形』なのではないだろうか。

参考:『保存修復の技法と思想』田口かおり

2025年5月26日 (月)

文化財修復の掟とその寿命

私たちはこの世に一つしかない貴重な文化遺産を取り扱うため、芸術作品や歴史資料の修復に際していくつかの原則を守るようにしている。これらの原則は現在文化財を保護するための最善、最良な方法を示す羅針盤となり、過剰な処置を抑制し、対象の現状をより良く残すためのシステマチックな方法論であると思う。でも、どんな方法論も長く同じよう利用して、いろいろなものに対応させているうちに、様々な問題が浮かび上がってくるものであり、あるいは確かと思って(なんの疑いもなく思い込んで)日頃振り返ることもないこの原則にも、きっと問題点や欠点は潜んでいるように思う。

私たちが大切にしている原則には以下のようなものがある。


1.最小限の介入

 

現状の保護策。変化の抑制。現状から出来るだけ取り除かない、加えないこと。作品、資料の現状を限りなく保護、保存するという意味において最良な方法である。

2.可逆性

 

再現性。修復処置前の状態に戻すことができるようにすること。再修理、過去の修理の再評価に備えることが可能となる。

3.判別可能性

 

修復箇所が確認できること。処置箇所とオリジナルとの差異化を図ることでオリジナルの現状を確認、区別が可能となる。

4.適合性

 

近似した材料を使うこと。オリジナルの材料素材と調和を保つこと。材料の質、強度を合わせることで修復対象も安定する。

5.記録

 

処置前の記録、処置の記録。文化財の保護として安全、重要なな手段。修復も文化財の経歴として記録と修復はセットで行わなれる必要がある。

 

~それぞれの原則における考え方と問題点~

1.最小限の修復について
芸術作品、歴史資料など広く文化財(=人の創造物。以下は国や地方自治体の指定品以外も含めた広義な意味で文化財と記す)の修復において最も重要なことは、その現状をできるだけ維持することであり、その方法論として有効なのが最小限の修復である。それは例えば芸術作品であるならば、画用紙や画布、絵の具といった材料素材への必要かつ最小限の介入であり、少し優しい言葉に変えるならば、たとえ何らかの修復処置を施すとしても、そこからできるだけ取り除かない、できるだけ加えないということになる。
しかし、文化財の保存や管理、取り扱いに長けた所有者、管理者がいる一方、それを良好に取り扱い、安全に保管するに十分な知識や経験を持たない者も少なからずいるし、修復の依頼者が美術館や博物館など公共の施設であっても、展示や保存の環境、設備が十分整っていないような場合は、最小限の修復が良い修復であるということは必ずしも言えない。必要に応じて最小限の修復に加え、強化とか、補強をすることにより、所有者、管理する者の負担を減らし、なお彼らが安心して取り扱うようにすることができるならば、それはそれで文化財の延命につながるはずである。そのさじ加減は難しいが、修復家は彼らの修復に対する要望をよく聞き、理解することを優先して、なお彼らの知識や経験についても触れて、相互の協力によってより良い修復計画を立て、所有者や管理者も納得のできる修復の着地点を見つけ出すことが大切であると思う。こうして『最小限の修復』ということを考えていくと、そのあり方についてはケースバイケースで考えてゆくことこそが最良である。

2.可逆性について
可逆性を確保することは、最小限の修復、介入に次いで重要なことである。これは、将来いつでも現状(これから行う修復以前)に戻すことのできる手段、工夫として有効であり、最小限の修復と共に修復箇所に加える材料、素材の可逆性を確保することによって、よりオリジナル、現状の確保、または回復ができる可能性を担保するものである。しかし、この一方では、可逆性が高いということは剥がれ易いとか、除去しやすいがために、処置箇所、加えた材料素材の耐用年数、寿命は短くなる可能性が否定できず、将来再復は必要であるという前提条件の上で成立するものであり、可逆性を追求してゆくと、再修復が必要となる時期も早まる可能性が生じることも心得ておかなければならないだろう。

3.判別可能性について
文化財の修復は現存する状態を保護することが最大の目的であり、修復のために加える材料と残存する作品との間には適当な差異を図り、つくることにより、現存する製作当初に使われたオリジナルの材料素材(その作品や資料自体を構成するもの、作り出しているもの)の状態(現状)を判別、区別することができるようになる。
しかし、この一方では、大きな差異を作ってしまうと修復処置部が目立ち、視線がとらわれるなどして鑑賞の弊害となったり、材料強度の差が大きければ処置部付近に応力が集中し、二次的な損傷(折れやシワ、波打ち変形など)の発生源ともなりうる可能性がある。

4.適合性について
ここでいう適合性とは、修復のために加える材料がオリジナルの材料素材と大きな違和感なく適度な調和が保てるようにすること。掛け軸や巻物(巻子本)などは利用時に巻いたり、たたんだり、広げたりするため、その際に抵抗なく取り扱えるようにする必要があり、例えば欠損部の補填材料の強度がありすぎたり、あるいは強度が低すぎたりした場合は、同部付近に応力が集中して波打ち変形や折れ皺が生じる(果ては亀裂や破損に至る)など、作品や資料に悪影響を及ぼす可能性がある。天然由来の材料は湿度により敏感に伸縮(膨張~収縮)するため、全体の調和、均一性をはかるためにも材質(材料の密度、硬度など)を近似させる必要もある。 
しかし、適合性を追求するほど加えた物がオリジナル材料と一体化して判別可能性は低下する。適合性よりも判別可能性を追求すれば損傷に至ったり、視線が囚われ、スムーズな鑑賞もできなくなる。

上記の3.4については、芸術作品や歴史資料の『潜在的な統一性』(チェザーレ・ブランディ『修復の理論』p35)、の損傷したイメージの回復に貢献、影響をするが、その着地点、どれだけ追求するかを定めることは難しい。数百年も経た画用紙や画布の修復、欠損部の補填には、紫外線(祐松堂では太陽光に長く晒した材料を使用した経験がある)や電子線などで強制的に劣化した材料を使用する試みも行われているが、このような対応については、小さな処置部に対しても、大きな手間と時間、費用がかかることも問題である。

5.記録について 
記録するということ、記録を残すということは文化財(広く国や地方自治体における指定品以外も含めて)には直接的、物理的に影響しないという意味において、文化財を変化させることなく、安全に情報を残すことができるという意味で文化財の保護性が高い。
修復の前後の様子、修復中に得た情報を文字化したり画像化したものは、その作品や資料のいわゆる経歴、病歴(カルテ)として、将来の再修復に備えた有効な情報ともなるし、それは所有者や管理者にとっても、今後作品や資料をより安全に、確かに取り扱う上での有効な情報となるだろう。さらにこの文字化、画像化した情報は歴史的な資料としても将来意味あるものとなるかと思う。
記録における大きな問題はそのその保管方法にあると思われる。昨今はデジタル化が進み、デジタル化した情報は利便性に優れていているが、デジタル記録の媒体として使われることの多いCD-ROMやDVD-ROM、レーザーディスクなどにも保存性能には限界はあり、保管方法によっては早期に利用できなくなる恐れがある。加えて、これらの情報を読み取るためのコンピュ-ターのめまぐるしいほどの進化によって、OSなど基本的プログラムやアプリケーションソフトの旧式化が急速に進み、古い情報は早々に陳腐化し、将来的に読み取れなくさえなってしまう可能性がある。記録の保管に大切なことは、クラウドシステムなどにデジタルデーターを残すとともに、利用実績の長い紙媒体などへの印刷を含めて、いくつかの方法を併用して保管することが望ましい。

修復の原則にもよく見れば様々な問題がある。ましてや現代における最新の芸術表現には対応が難しいものもあるかと思われる今日、これらの原則についても見直したり、再考してゆく必要があると私は思う。これから修復家になろうとする者、現在すでに現場で活動している若い世代の修復家、修復師(修復士)の皆さんにはぜひ知ってほしい。考えて欲しいと思う。

 

参考

田口かおり『保存修復の技法と思想』

チェ-ザレ・ブランディ『修復の理論』

2025年5月18日 (日)

表具師と修復家

今日修復家を目指すおよそ多くの方とは事情が異なり、この世界に入るにあたって*表具師の元での修行からスタートしたので、表具師をはじめ、日本の伝統工芸、その技術を受け継いでいる職人の方々には少なからずシンパシーを感じるし、また尊敬をしている。現在でもなお、日本、東洋の書画の修復には、伝統的な表装技術の習得は不可欠である。
しかし、私は修行の後に修復家を標榜し、現在の活動をはじめてからは、その技術や知識を今も利用、応用しているが、本来の表具師、職人としての立場や考え方は土台、基礎として地に埋め、棚に上げるようにしている。私はあくまで修復家であり、常にそのプロフェッショナルでありたいと思って今日も活動を続けている。

確か1996年ぐらいだったと思う。私が*文化財修復学会という研究団体に入って間もない頃、研究発表会や懇親会などで出会った東洋絵画の修復に携わっている人が口々に『表具の方をやっています』と自己紹介してくれた。その当時はふざけて言ったわけではないが、『表具師ですか』と聞くと、半ばムッとして『いいえ、修復家です』といい直していたのをよく覚えている。確か、京都の修復家が多かった(今日でも、日本の表装文化の発祥を京都とする人は多く、京都で修行することを望む者も多い)と思うが、地元独特の言い方なのか、業界の習わしだったのであろうか、、、。

では、表具師の仕事と修復家の仕事は、同じ様な技術や知識を利用しながら、どこが、何が違うのか、私なりに考え、思うところを記す。
まず、表具師の仕事、表装【ひょうそう】をひとことで言うならば、書画を装飾する技法、技術であり、着物や帯に使う織物を染めたり、刺繍で装飾したりする伝統工芸と同じであると私は考えている。
表具、表装は天然の素材から伝統製法により生産される和紙と絹織物を使い、書画を掛け軸や巻物、額、屏風などに美しく仕立てることを目的とした仕事であり、表具師とはその技術に長けた技術者、職人である。

話は少し外れる様だが、日本では利用する材料素材の寿命からか、家屋や什器に仕立て直しや修理、調整をして再利用する文化が成長した。茅葺き屋根の葺き替えとか、襖や畳、障子の張り替えなどがその例で、実は掛け軸や巻物も、屏風も同じように時が経てば仕立て直し、仕立て替えの時がやってくる。掛け軸や屏風に仕立てられた東洋の書画は、表装材料と作品本体(画用紙、画布)が全て糊付けされているが、天然由来の接着剤はいずれ劣化して、あちこちで剥離や分離が生じるし、長く大気や光にさらされた表装材料も痛み、新しいものと取り替えが必要になる。もともと掛け軸や屏風の構造や作り方を熟知している表具師は、いつしか解体、解装の方法、技術も向上させ、表装を解体すれば、必然的に経年を経て汚れ、痛んだ書画も取り扱わなければならないので、ある意味書画自体の修理、修復の知識と技も一緒に身につけてきたのだろう。現在も表具師が東洋書画の修復に関わっているのはこんな歴史が背景にあるからだと思う。
しかし、表装というのはあくまで書画を引き立て、演出をしてより美しく、よりよく鑑賞できるようにする技法であり、私たち修復家が考えるような作品の保護や延命は念頭に置かれていないか、その優先順位が低いように思われる。

私は実際に、表具師がおこなったのであろう過去の修理例もたくさん見てきた。解体時に表装裂地と作品本体(画布や画用紙)の接着部分、のりしろ部分を無造作に切り取られ、現在に至って作品のサイズが小さくなっている様な書画は多い。少なくとも何十年も経ったような書画ならば、画用紙や画布が変色していることも多いので、所有者(依頼者)の希望もあってからか、図らずも過度な洗浄をしてしまい、長い時間を経てまとった古色、風合いのようなものまで奪い去られてしまった作品はたくさん見てきたし、事前に行うべき処置が不十分だったか、描画部の絵の具がにじんでしまったり、剥離してしまった作品にも出会った。
傷んだ部分を、修理した部分をわからないようにしたかったのであろう、描線や描画、色が欠けた部分には損傷周囲の健常な部分にまで絵の具を塗って処置部分を誤魔化している様なケースも多い。
現代の表装作業に至っては、コストパフォーマンスを追求してか、合成樹脂や合成紙(レーヨンやパルプを含んだ紙)両面テープを使って作る掛け軸もある様だし、熱で溶ける接着剤とズボンプレッサーのようなテーブル状の加熱装置を用い、接合部や裏打ち紙を作品もろとも加熱、圧着して、一気呵成に掛け軸を仕上げてしまう技術もある。

私たち修復家は、書画作品を芸術作品としてみる一方、歴史的な資料としての価値も重要視し、双方の価値をできるだけ残そうと努めている。私たち修復家にとって重要なのは、作品を装幀、修復する以前に、まず作品自体をよく観察し、理解に努め、経年を経て、歴史をまとった現在の状態を貴重なものとして捉え、そのどれだけ残せるかを考え、尽力することにある。だから、よく見える様にとか、綺麗にすることは必ずしも優先されないし、場合によっては(再利用可能であれば)古い表装材料も調整をして再度利用することがある。先述したような作品本体のサイズを縮小するような行為もしない。
顧客の希望は優先されるべきとは思うが、経年を経て脆弱化した作品の変色や汚れをどれだけ綺麗にできるかという様なことには限界もあるし、長い年月の果てにまとった古色や風合いは、たとえそれが経年劣化の結果であったとしても、それを歴史的な経緯として認識することもできるし、その古色、風合いは取り除いてしまったら取り戻すことはできないから、修復後の作品の寿命を左右するような問題がない限り、残すことができるかどうかを考え所有者にも相談する。
描線描画が欠けた部分についてはとくに慎重に扱い、オリジナルの画用紙、画布の上には絶対に絵の具をのせない(それは修復ではなく、オリジナルへの上塗り、加筆となる)。私たちが『補彩【ほさい】』などと呼ぶ行為は、あくまでも作品の鑑賞がスムーズにできる様にする、損傷部に目がとらわれない様にする補助的な処置として、『再生』とか『再現』は追求せず、控えめに行い、場合によっては多少処置部が認識できる程度にとどめることも多い。
私たちが行う修復処置の全ては、損傷部分、問題の生じている部分に限定して行い、なお必要かつ最小限の処置に努めるようにしている。
私たちは合成樹脂の利用についても慎重だ。その多くは可逆性(後に取り除き、使用前、処置前の状態に戻せる性能)の低いことから、将来再修復ができなくなる可能性があり、さらに表装する作品にダメージを与える可能性があるため基本的に利用しない。合成樹脂については科学技術の進歩にによって比較的長期の安定を示すものがあるが、その安定を保証する実験結果は限られた条件下で行われているため、利用方法、利用環境が異なれば寿命も変化する。先に記したような一部の熱可塑性接着剤(熱で溶ける接着剤)については、作業中に作品自体も加熱してしまうことが問題でもあり、また加熱して溶解する接着剤成分が作品の画用紙や画布に含浸してしまい、後日変色したり、取り除け無くなってしまう恐れがあるため絶対に利用しない。
東洋の書画の支持体として昔から使われている和紙や絵絹は、手厚く管理をすれば数百年の保持ができることが実証されているいっぽう、現在利用できる合成樹脂ははるかに寿命が短く、これを含浸させてしまえばそれもろとも短命に終わってしまう。
私たち修復家は皆、表装や裏打ち(作品の画布や画用紙の裏から紙を貼り付け補強、形状安定させる技法)の際には、作品に悪い影響を与えない良質の天然材料から伝統工法により作られた材料を利用する。接着剤についても小麦粉から抽出したデンプンに水を加えて煮溶かしたシンプルな糊=正麩糊【しょうふのり】を使う。伝統的に利用されてきたこの天然由来の接着剤は利用実績が長く豊富であるが、腐敗しやすいために食品同様(もともと食品が素材である)の丁寧な管理も必要で、何かと手間のかかるもので、合成樹脂から比べれば気象条件によく反応をする(とくに湿度の影響を受けやすい。カビなどの微生物被害も受けやすい)ものでもあるが、数百年の利用実績があり、固化した糊は水分を与えることで比較的容易に溶解するため、いつでも取り外し、取り除くことができる(可逆性が高い)から、今日でも信頼が置ける大切な材料である。
そして、おそらくほとんんどの表具師が行なっていないであろうこととして、私たち修復家は皆、記録を取ることを大切にている。お預かりした作品のその時の状態から、修復中の発見や処置した内容、処置後の変化などについて細かく記録し、さらに処置前後、処置中の写真記録も行う。この記録は、病院のカルテのようなもので、その作品の病歴や現状、処置記録を残すことにより、将来再修復が必要となった際には手がかりや足がかりとなり、所有者や管理者には作品の状態を熟知してもらうことによって今後の管理や利用に役立てていただきたいと願っているものだ。(祐松堂のウェブサイトではこの報告書を一部公開しています)

誠に残念なことは、先のコロナ禍の後に、私たちの使っている材料の需要がいっそう落ち込んだようで(もともと私たちの利用する材料、素材は希少であり、需要が少ない)、後継者も育てられず、廃業に追い込まれる生産者はいまも後を絶たない。そんな材料は高騰するばかりで、これを私たちが提供するサービスに反映させてゆくのに苦労を強いられている。私たち修復家には対美雨パフォーマンスとか、コストパフォーマンスなどといったことは無縁であり、それを求めることも難しい。

どうであろう。表具師の仕事と修復家の仕事、その違いが少し伝わっただろうか。

2025.07.13改訂

*表具【ひょうぐ】、表装【ひょうそう】
伝統的な手法によって書画を装幀し、掛け軸や巻物、屏風などに仕立てる仕事。表具師【ひょうぐし】はそれを行う技術者、職人。ほかに経師【きょうじ】などと呼ばれる。

*経師(きょうじ)、装潢師(そうこうし)
日本では古くから(12世紀頃に仏教の伝来とともに中国から伝わったとされている)東洋の書画を装幀する技術者、職人のことを経師(きょうじ)、のちに表具師などと称されてきた。現在国宝の修理などに当たっている技術者らは装潢師(そうこうし)と名乗り、国宝修理装潢師連盟なるグループを作り、他と差別化を図っている。
この職業に『経』の文字が使われているのは、当初取り扱っていたものが経典や仏画など、信仰、に関わる書画が多かったことが考えられる。ちなみに、装潢師と呼ばれた技術者も、かつて経典に使用する紙の調整や加工を行っていたようである。

*文化財保存修復学会<https://jsccp.or.jp/abstract/index.html>

2025年5月11日 (日)

芸術はエクリチュール

ヨーロッパにおいては、古くから話し言葉こそが発話者の真理により近いものとされ、書かれた言葉はその発話者の真理に遠く、話し言葉より劣るものとされてきた。話し言葉をフランス語でエクリチュール(écriture)といい、話し言葉をパロール(parole)という。

パロールは個人の表現として発話者が支配し、コントロール下に置かれる。それはより直接的で、たとえ聞き手がその言葉を誤認、誤解したとしても、正したり修正することが可能であり、より真理を伝えることができる(誤解されにくい)から優勢であり、一方のエクリチュールは書いたものが発話者(筆者)の元を離れ、あちこちを転々として、後に様々な解釈がされ、間接的で誤解もされる。だから真理から遠く離れてしまうため、より劣っているというのが伝統的な考え方であるが、ポスト構造主義の代表的哲学者の一人とされるジャック・デリダは、この二項対立の関係性に注目をし、パロールこそ真理の直接的な表現であり、優位性があるとすることを批判し、エクリチュールの役割に注視した。

デリダはエクリチュールの作者の意図を追求することをいったんやめて、書かれた言葉の作者の存在や意図にとらわれずに、なおその言葉を簡単に否定することなく、言葉自体に敬意を払うように真摯に向き合い、その自律性を尊重し、書き言葉が多様な解釈を生み出す可能性(例えば自発的な生命力のようなモノ)がある優れたものとして捉えてゆく価値あるものと考えた。それは誤読や誤認、誤解は悪であるという価値判断をいったん棚上げにして、パロールが正。エクリチュールが誤といった二項対立から距離を置いて、絶対的な何か(正誤、優劣といった答え、価値)をつくり出すのではなく、物事を柔軟に捉え、考える(考え直す)試みである。
今日もなお、私たちの周りには、白黒、正誤、優劣といった二項対立の世界が依然として、厳然としてあり、多くの人々がそこにとらわれ、決めたがり、決着をつけることから逃れられず、執着さえする。そしていったんその決着がつくと安堵してしまい、まるで引きこもりにでもなったかのように思考することをやめてしまう。例えていうならば、テレビのクイズ番組。どれだけ『答え』を知っているかで優劣がつけられる世界。でも、『正解』が出ればおしまいである。これは私たち修復家のような専門家の世界の中でも、同様のことが言えないだろうか。
デリダの言葉は硬直したり停止してしまった私たちの思考を刺激し、今一度思考しろ。その先に向かえと、未来へ一歩踏み出すための勇気や足がかりを与えてくれるように思える。

私は今、ポストモダン(ポスト構造主義)と呼ばれる哲学を学びながら、私が日々対峙する芸術作品や大好きな音楽、そして私が生業としている広く文化財の保存修復について思考をめぐらせている。
数百年前に描かれた絵画作品が目の前にある。この絵画の画家、製作者は話すわけじゃなく描いたのだけれど 、ある表現(話し言葉)の発話者自身であり、その制作意図、真理を持つ者であるが今はもう現存しない。かつて芸術家が存命の間は、自身の描画表現の意図や真理を他者に伝えることもでき、鑑賞者が誤解、誤認すれば、それを正すこともできたと考えると、画家、広く芸術家はパロール(発話者)と言えるのではないかと思う。 そして、芸術家がその意図や真理を描いた一枚の絵画、芸術作品(描かれた絵、表現された物)は、その製作後に製作者の元を離れ、他者の間を転々とし、様々な人々によって鑑賞されながら製作者の意図から外れ、離れて、様々な理解や解釈が与えられてゆく可能性があるという意味において、エクリチュールに置き換えることができるだろうと思うのだ。
かのレンブラント・ファン・レインの『夜警』(『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊』/ De compagnie van kapitein Frans Banning Cocq en luitenant Willem van Ruytenburgh)という作品は夜の場面を描いたものではないが、後日塗布されたニスが褐色化し、全体の印象が夜を表している様に見えるようになったことから『夜警』と呼ばれ、現在でも多くの人がそう認識している。これは経年による変化により人々に与えた印象が変化したとも考えられるけれど、誤解とわかった現在でもなお、多くの人々に『夜景』(オランダ語:De Nachtwacht=美術館自体がそう紹介をしている)として親しまれている。現在も偉大な作品として紹介される絵画の中には、作品の製作当初、画家の存命中にはヘタクソであるとか、キワモノとして認識されても、高い評価などされることなく、死後しばらくして高い評価を与えられるようになった作品も多い。芸術作品は解釈や理解が時を経て遅れてやってくることもある。
誰かの描いた一枚の絵画が製作されたあと、時間の流れや社会の変化の中で、ときには数奇な運命に出会い、書かれた言葉と同じように、その意味、解釈が変えられていった、加えられていった例は、探し出せばきっといくらでもあるだろう。
古典的な絵画の中には、神の教えや故事にちなんだ世界を表そうとした物語性の高い作品もあるが、そんな絵画でさえも、その意図や真理から離れて絵画自体を芸術作品として鑑賞することができる。そうして鑑賞をすれば、そこから得られる印象、感想はまた様々になるだろう。日本ではかつて信仰の対象、象徴であった仏像や殺戮の武器であった日本刀が、美術品として高く評価されている。これもまた、象徴や道具から美術品としての価値が見出されたものとして、解釈の変化が生じ、存在意味さえも大きく変えたものとしての一例となろう。そして、それを間違っているとか誤りであると言う人もきっと少なかろう。

こうして芸術作品を観て、考えてゆくと、それは書かれた言葉と同じかそれ以上に、芸術(広く人の創造物と言っていいか)はいつの時代も私たちに新たな解釈をさせ、様々な意味を想起させる。そんな余地を持ち、変化の可能性を秘めたエクリチュールとは言えまいか。そんな可能性を秘めているからこそ、私たち人類にとってとても大きな価値があり、貴重な芸術作品なのであろう。だから、きっと未来の人々に伝える価値があるのだろう。そんな芸術品を後世に長く残すことが求められる修復という仕事なのであろう。

 

ジャック・デリダ

<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80>

 

2025年5月 8日 (木)

芸術と音楽が開いてくれるどこでもドア

私の小学校の時分の書道の時間。学校の先生は『墨は硯に垂直にあて、直角にすりおろしていかなければならない。筆も垂直に立てて!心が曲がっているから筆も墨も字も曲がる!』とおっしゃっていた。それからしばらくして大人になって社会に出て、プロの書家や名僧の揮毫の場に立ち会うと、墨なんか斜めにすっている。聞けば『斜めにすったほうが表面積が大きくなって早くすれる』と、著名な書家が物理的な利点を教えてくれる。『筆の持ち方も自由自在に持つことでいろんな線が描けるよ』と一瞬間をおくと一気呵成に書いた文字は縦からも横からも読めない。(先生の言ってたことと違うし、一体何を書いているんだろう?
苦手だった音楽の時間。綺麗な声で歌いなさい。怒鳴らない。音に、リズムに合わせて!と強制される。その後、高校生の時だったか、初めて聞いたジャズのレコード。確かジョン・コルトレーンの初リーダーアルバムだったか、 コード(和音)からまるで綱渡りのように付きつ離れつのスリリングな面白さ、少々ハズレたような音もパワフルで素敵に聞こえる。さらにフリージャズという無茶振りに驚愕。(ちょっと調子の狂った音も、うねるようなリズムもいいじゃないか!)

私が子供の時分は、学校における学習のすべては、課外学習、書道のような体験学習も含めて、皆同じように『学習』することが望まれていたように思う。いいや、確かにそう思わされていたように思う。絵画の正しい鑑賞の仕方とか、文字の正しい書き方とか、そこにあるとされた意味や答えを求めようとするものの見方。正しい答えがあるという考えのもとに行われる学習である。まあ、書道の授業なんていうのは、精神修行的な側面を重んじていたのかもしれないけれど、でも結局お手本を上手に真似て揮毫した人が褒められるのだ。
芸術や音楽は今見えている、知っている、実はそう思っているだけかもしれない(子供はそれしか知らない)世界を批判したり、外に飛び出そうとする活動であり、そこに大きな意味、価値があるのだと私は思っている。かのデューク・エリントンも『スイングしなけりゃ意味がない』と言っている。スイングとは、もともと揺れると言う意味であるが、まずはしのごの言わないで、その音楽、演奏に身を委ね、演奏者と深くその世界にどっぷりと浸かって、同調、同期することかと思う。

そもそも芸術も音楽も、私たちが今使っている言語やそれまでの約束事やシステムを飛び越えて、この世界からはみ出したものである。そうあってほしいし、そうあるべきだと私は思う。だから、それは時に奇抜で風変わりなものとして捉えられたり、センセーショナルゆえに敬遠され、嫌われたりする。往古の芸術作品、音楽の中には、製作者の死後に評価されたなどということは珍しいことではない。それは今捕らえられている世界から読み解こうとする限り、理解することは難しいのだろう。でも一方では、その奇抜さや風変わりなものが、私たちにはとても新鮮に見えて、聞こえて、センセーショナルだからこそ私たちにとって魅力を感じさせる。そこに社会の約束事やシステムの外側にあるのだろう多様でより豊かな世界を想起、イメージさせてくれるのだ。今持っている答え、約束事、システムが作り、提供してくれた答えを棚上げにして、そこに真摯にこの身を委ねることができれば、いつかそのありかを教えてくれるかもしれない芸術や音楽なのだと思う。

2025年5月 6日 (火)

マトリックスという構造

この連休にキアヌ・リーブス主演の映画、マトリックスのシリーズ全4作品をぶっ続けで観た。遥か未来の話、人類が作り出したコンピューターは、何度も懲りずにひどい争いをしたり、環境を破壊し続ける人間はこの世界にとって価値はなく、コンピューターの動力である電源、つまり『電池』として利用するほか意味はないとして、人間を人口保育器のようなものに入れてたくさん繋ぎ、『電池』として生涯を安らかに生きてゆけるよう、彼らの意識はコンピューターによって作られた高度なプログラム、『マトリックス』と呼ばれるバーチャルな架空世界の中で、それなりに平和に不自由なく楽しく生活をさせているという世界の話。しかし、この世界に違和感を感じる者がチョロチョロと出てくる。その一人が、やがて人類を解放する救世主となる『ネオ』と呼ばれる天才ハッカー、主人公のキアヌ・リーブス。

言語学者のフェルディナンド・ソシュールは、人はこの世に生まれた瞬間からその社会、世界にある言葉の網にとらわれてしまい、そこから逃れることができなくなると言った。人類学者のレヴィー・ストロースはまた、人は社会の見えない構造に囚われており、自ら自由と思っている言動さえ、その構造に中にしかありえないと言った。私たちはこの社会の中で、従順に、平和に暮らせるよう、幼い頃から学校の教育プログラム下に置かれ、教えられ、躾けられてゆく、、、。
どうだろう。私たちの世界、マトリックスの世界とそっくりじゃないか。でも、この私たちの世界にも違和感を感じ、そこから飛び出そうとする『ネオ』たちがいるのだ。実は、あなたも『ネオ』になれる可能性がある。そのために、まず私たちの世界をもう一度、よく見直してみよう。どこかにここから飛び出し、抜け出る隙間や穴があるかもしれない。もしかしたら、それはウサギの穴。そう、不思議の国かもしれないけれど、、、。

2025年5月 3日 (土)

スーツの着方、絵画の鑑賞方

アメリカのウォール街あたりで、サラリーマン、証券マンがネクタイをしなくなり、スーツにスニーカーを履き始めたのが発端だという人がいるようであるが、最近、日本でもスーツにネクタイをしない人が増えてきた。ひと昔前の日本のサラリーマンといえば、ダークな色か濁ったような色のスーツに地味なネクタイ、黒い革靴というのが定番であったと思う。靴はとにかく黒が常識。茶色なんて以ての外なんて感じで、今でも新入社員なんかにはそんな『定番』の格好をしている人がいるだろうか。景気が悪くなって、電力節約のために『クールビズ』なんて造語ができて、ネクタイするのはやめましょう。夏はジャケットを脱ぎましょう。しまいにはポロシャツもOKなんて会社も出てきた。
スーツの素材も随分変わってきて、スポーツウエアなどに利用されている伸縮自在な布で作られるものも出てきたし、足元なんてスニーカー常用なんて人も結構多くなってきた。昔は紺色のスーツにに茶色の靴なんて御法度っていうくらい合わせなかったのが、今では紺色のスーツには茶色の靴がベターなんて言われる。

私は自営の事業主なので、若い頃から結構自由にさせてもらっている。まあ、取り扱っているものが芸術作品だったりするので、少しは個性的でもいいと思っているし、それなりにファッショナブルであるべきだという考えがある。
私の取り扱う美術品も歴史資料も、ほとんど数百年の歳月を得ており、およそ綺麗なものはない。綺麗と美しいは混同してはいけないと考えているが、工房に持ち込まれる作品や資料は甚だ汚れており、経年で変色し、大抵は濁ったような感じになっている。
こんな日々の仕事のせいだろうか、趣味のロードバイクに乗るときには結構な原色のジャージを着る。鮮やかで澄んだ色を身に纏うと、何かこう気分が上がるのだ。派手な色は視認性も良いので、事故予防にもなって一石二鳥である。
綺麗という感覚も人それぞれかと思うけれど、私は普段の生活でも、仕事で顧客を訪問するときにも、どこかに綺麗な色、好きな色のものを身につけるようにしている。『定番』に慣れ親しんだ人々から見れば、少々違和感を感じるような装いもあるかもしれないが、私は『定番』とか『常識』なんて狭い世界の中の決め事ことだと思っているから、カッコよければ全てよし。できる限り自由にさせてもらっている。

さて、話は変わって美術館。ずっと中へ入ってゆこう。あなたがお目当の作品でも良い。なんだかさっぱりわからない抽象作品ならなお結構である。あなたはきっと、その傍らにそっと貼られた解説、研究者、学芸員が心血注いで、言葉を選りすぐり記した説明に目をやるだろう。
美術館にゆくと、たいてい多くの人々がこの解説を読むのに時間をかけている。中には実際の絵画を前に展覧会のカタログを見ている人もる。そして彼らは、その絵をさっと眺めてはまた次の作品の前の解説を読んでいる。実にもったいない。
もう少し立ち止まって、よく絵画を観てみよう。当たり前だろうとお叱りを受けるかも知れないが、隅から隅まで目を凝らしても、その解説は絵の中に見当たらない。また当たり前。絵画は文章表現ではない。あなたは解説を読んでその絵画が分かったと、理解したと考えている。それこそがもったいないのである。
解説を読んでも良いから、そのあとは自分自身の目で、ゆっくりと、くまなく絵画を見よう。そうしていると色々なものが見えてくるはず。描線一つにとっても、細かったり太かったり、先がかすれていたり、勢いがあったり、穏やかであったり。色彩はどうだろう。目に飛び込む鮮やかな色。落ち着いた色。いくつかの色は重なり、混じりあう。今度は少し離れて、全体を俯瞰するように眺めてみよう。今目にした描線と色彩が協調した一枚の作品が見えて来る。あなたはこの間にどんな印象を浮かべただろうか。その印象はあなたの中でどんな言葉を紡いだろう。あるいは言葉にならぬような、例えばサラサラとかビューンッといったようなオノマトペでも良い。あなたの心象に浮かんだ言葉や、音を聴きいてみよう。そこにあなたの貴重な体験、鑑賞結果がある。せっかく読んだ解説だから、その解説と、あなたの心象に浮かんだ言葉、文章はどれだけ近しいいのか、それとももっと違うものとなったか考えてみるのも良いけれど、『解説』はあくまで解説者の言葉。あなたが今鑑賞によって得た言葉、文章とどちらが正しく、どちらかが間違っているかなど大した問題ではないし、そこに優劣もありません。何故ならば、一枚の絵画にはそうした自由な鑑賞が許されているのだから。そうしちゃいけないなんて、その絵画のどこにも書いてはいませんから。

『解説』は『定番』とか『常識』のようなものだと言ったら、その解説を一生懸命に書いた方にまた怒られるかも知れないけれど、『定番』とか『常識』の外にも鑑賞の価値は潜んでいます。その価値を見つけるのも鑑賞ですから。
ゴールデンウィーク真っ只中です。どこもかしこも混んでるかも知れないけれど、よかったら美術館に足を運んで『鑑賞』を楽しんでみてください。あちこちで素敵な展覧会が催されています。

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