私が文化財保存修復学会という研究団体に所属させていただいた1900年代後半には、イタリアのチェザーレ・ブランディの文化財における修復理論が日本にも伝えられ、当時、多くの学識経験者、専門家たちがこぞって『オリジナリティー』『オリジナリティーの保護』という言葉を、まるで呪文のように重ねて唱えていたことをよく覚えている。
オリジナリティーという言葉をインターネットで検索してみると、「originality」とは、独自性や創造性、新しさを意味する英語の名詞。一般的に、何かが他とは異なり、独自の特性や視点を持つことを指す。などとある。そして、「originality」の元の言葉と言えよう「original」とは、最初の・本来の・原形・原本のことを意味する英語表現とある。(参考:weblio辞書)
私たちの目の前には人の作った(その人の)作品=オリジナルが確かにあるけれど、日本語で『創意』や『独自性』などと訳されるこのオリジナリティーというものは、特定をしたり、確かに捉えることは難しい。私たちは一枚の絵画にその製作者が使った画布や画用紙、絵の具(製作者が利用した画材=オリジナル)を科学的に、客観的に捉え、分析し、その物性や状態、使い方、絵画全体の構造を詳らかにし、説明することは出来ても、製作者の『創意』などというものは、製作者が説明でもしない限り知り得ることは困難である。私が日々修復しているような数百年も前に制作された作品であるならば、もはや製作者の意図も真意も不明となり、『創意』は製作者以外の誰かが、いま手に入る限りの情報を集めて、そこから推論をしなければ得られない。もし、万が一にも制作者が自身の創意を書き残していたとしても、その記述にさえ、いま私たちは様々な解釈をすることができる。そして、実際に作品は一切口をきかず、何も説明しない。
『独自性』というのも他の何かとの比較によらなければ成立しない。独自とは他と異なるということであるから、他に比較するものが必要だし、独自性の証明は他の存在に依拠する限り、比較する物によっていくらでも見え方は変わり、またそれを見る者の知識や経験によって(専門家とそうでない者の見え方は違ってくるだろう)如何様にも変わって見えてくるだろう。
時を経た歴史的証(のようなも)を大切にしろと唱えるブランディの言葉は、例えば画布や画用紙が劣化によって変色をきたした場合、その『古色』といったような制作当初(原型、原本=オリジナル)にはなかった状態、経年の結果により生じた症状、現象に価値を与えたことに功績を認めるが、私たちはまた、今守ろうとする作品を(守るべき物事を)増幅させる。はたして、時の経過による老化のような現象を保存の対象、守るべきものとするならば、それは最終的に『死』とか『消滅』を受け入れることも考えねばならなくなる。それはどこまで受け入れるのか。『死』や『消滅』こそは全ての物の行き着く最終結果であり、芸術作品にも皆、製作当初より備わったオリジナルな性質である。
そして、私たち修復家は、今日も作品の死を拒み、抗うことを職務としている。
私たちは常に、誰かの創造物に様々な曰くをつけては価値を増幅化させたり変化させている。文化財、広い意味で人々の創り出した芸術品や工芸品には、長い年月を通じて、大小様々な物語が着せられる。長年の利用によりついた手垢や擦り傷、修理の痕までもが大切に残されている例も少なくはない。骨董などと言った趣味は、日本でも海外でも古くからあり、日本では詫びとか寂といった独特の美意識、価値観が生まれた。海外では古色のついたような古い絵画が売れるようになると、新しい絵にわざわざ着色、変色させたニスを塗布して販売された例もある。ブランディに言われるまでもなく、経年による変化を美しいと感じたり、古びたものに価値を見出していた人は昔からいるようだ。もし、こういったことを含めて、その歩んできた歴史の痕跡をもそのオリジナリティーとして含むのであれば、もはやそれは最初の・本来の・原形・原本 を指し示すモノではなく、それは誰かがある作品の創造の後につくり出し、与えた新たな価値であり、芸術作品と同じように、人が創造した恣意的なイメージとは言えまいか。私たちは作品製作後の変化、現象や症状に加えて、さらに自らがつくり出し、新たにまとわりつけた物事をないまぜにして『オリジナル』 とか『オリジナリティー』と言ってはいないか。
2025/07/22改訂
チェザーレ・ブランディ https://en.wikipedia.org/wiki/Cesare_Brandi
『修復の理論』
[著者]チェーザレ・ブランディ
[監訳者]小佐野重利
[訳者]池上英洋+大竹秀実
2005年6月30日/A5判並製/288頁/ISBN978-4-88303-159-7