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2025年2月

2025年2月28日 (金)

鑑賞できない修復家

私は作品と対峙した瞬間から、対象を物として観る。様々な材料が組み合わされ、積み重ねられた物質として、その組み方や積み方に注視をする。この時から修復処置が終わるまでは、およそ芸術作品としての『鑑賞』はしない。いつの頃か、そんな見方が体に染み付くように習慣になってしまい、美術館に足を運んでも、ついつい芸術作品を『物』として観察してしまう、、、。
観察と鑑賞は異なる物事の見方である。辞書などを開いて調べると、観察とは物事の現象をその状態のまま客観的に見ることであり、鑑賞とは味わい、理解することと記されている。これを言い換えることができるならば、対象となる物の知覚的、客観的な認識(その段階)と、体内で精神に落とし込んで、例えば喜びや不安を感じたり、そんな湧き上がる感情なんかを言語化したりする主観的な認識をするということにならないだろうか。

エトムント・フッサールという哲学者は、人の先入観として、例えば『目の前に一枚の絵画がある』ということを、その認識をいったん排除することにより、人の内面に生じる現象そのものを調べて考察をする『現象学』という思考方法を考えた人である。彼は物事をボーッと見る(判断を中止する)ことによって、自分の意識の流れを観察しようとした。そして、ボーッと絵画を見ただけでは生まれてこない自分の思考やイメージが作られることから、人はこの世界を、この世界にある物事を主観的な体験に基づいて認識していると考えた。

あなたが、初めて画家に自分の肖像を描いてもらった時、その絵を初めて見たとき、いったいどんな思いを抱くだろう。私はこんなに太っていたのかとか、案外イケてる顔だなあとか、、、。でもそれは、その絵を見る人によって皆違う印象を得るだろう。そう、眼球から得た情報は皆、人の中で現実とは異なった形に作り変えられて、その実像から離れていったりするものだ。
一前の絵画を前にして、描かれた静物や風景、人物が実在したかどうかなどということは、大きな意味を持たないこともある。抽象絵画などはそのいい例としてあげられるだろう。さらに絵画の鑑賞というのは、そこに描かれた色や形を見たらそれでおしまい。ではない。近づいてみれば彩り豊かに塗られた絵の具があり、複雑に隆起する絵肌がある。繊細、あるいはダイナミックな筆跡を目で追うのも面白いだろう。そして、また少し離れて描かれた全像を見直して、知らず知らずのうちに、自らの中にどんどん浮かび上がるイメージや言葉(感覚、感情、説明)と向き合うのである。一枚の絵画には、私たちに複雑な思いを想起させる何かがある。

一方の私たち修復家は、描かれた『物』を修復するのが仕事であるから、どうしても物質や構造に注視する(少なくともボーッとは見ていないと思うのだけれど)。私たちの取り扱う物は、いつも複雑で時に怪奇でさえある。作家が選んで使った画布は複雑に織られ、画用紙は様々な繊維が固まった薄くもろいシート。絵の具はまた様々な鉱物や染料から作られているし、塗布した絵の具は染み込んだり、滲んで広がったり、他の絵の具と入り混じったり、不思議で興味深く、カオスというか、チョット混沌とした様相を現している。そこに手を入れるのだから、それはそれは難しい仕事であると思う。ましてや、その製作者の創意工夫した姿形、色合い(はたまた偶然の産物も)を犯すこと無く、私たち修復家の意図が反映しないように手を入れて、傷んだ部分や汚れた部分を少しでも改善させる手立てを見つけなくてはならない。はたして、私たち人間の行動に、意図しない行動というものがあり得るのだろうか、、、。
科学的に絵画を観察することで、また科学的な思考の元に、理路整然と処置をすることで、修復家はそれを『客観的行動』とはしているが、たとえ専門家であったとしても、私たちもまた人であり、観察をしているうちに、いつか鑑賞に引き込まれてしまうような絵画もあるものだ。でも、それは決して悪いことではないと私は思う。
修復家は絵画を、芸術作品を『物』として科学的に捉えるべきである。けれど、人として、同じ人が丹精を込めて製作した一枚の絵画には、その道の専門家であるからこそ、敬意を払って、『鑑賞』することにより、また見えてくるものがたくさんあるのだと思う。

そもそも、絵画は『鑑賞』するものである。私たち修復家には観察することが必要であるが、鑑賞することも大切であると思う。

 

2025年2月14日 (金)

修復の時、修復の正解

修復家は、製作者自身が当初より選び、利用した材料の一粒一粒、そこから作られた姿や形、作り方のすべてが製作者の意図を証明する重要なもの(=オリジナルなもの)と考えている。そして、これこそが今日、人々の精神を揺さぶり、刺激し、何らかのイメージ(例えばある価値)を想起させる源であると考えて、今目にする現状をできるだけ変えずに、現存する状態を保護することを考える。
一方、修復という言葉にも、同義語である修理という言葉にも、物事を元の状態に戻す、復元という意味が含まれていることは、広辞苑などにも記載されている。おそらく、修復や修理という行為に多くの人々がイメージし、求めるのは、きっとそういったことなのであろうと思う。修復を望んでくる人々は皆、汚れやシミは取り除き、傷口をふさぎ、欠けた部分は綺麗に補ってほしいと望む。自分が大切にしてきた物の本来、こうあるべきとイメージする姿形、色合いの再建、回帰を求める。

日本の人はよほど専門家への信頼度が高いのか、文化財の修復といったようなことに関心が低いのか、意見や文句を言う人が少ないようだけれど、海外では、博物館や美術館で専門家が行った修復の結果に疑問を呈したり、批判的な声をあげる人が少なからずいる。よく耳にするのが絵画の洗浄にまつわる話で、その結果によって歴史性や時代性、見た目が損なわれたという苦言はこれまでに幾度か耳にし、専門誌やニュースなどでも読んだことがある。
『修復の理論』という本を記したイタリアのチェザーレ・ブランディーは、数百年を経て今私たちの前に残っている絵画や彫刻は、経年により、自然にまとった古色や劣化状態をある歴史的な証であるとし、人間の『老化』と等しく、現在のオリジナルな状態として受け入れ、大切にしなければならないと説いており、彼の修復理論、哲学、そのイメージは、今日の文化財の修復現場でも影響を持っている。こういった考え方は、古い物を愛でるような習慣、例えば骨董趣味などというものに端を発しているのだろうと私は踏んでいるが、日本にも詫びとか錆びといった考え方があって、長年の使用により染み付いた汚れや傷にさえ価値を見出して愛でるような、そんな世界観もあるから、人は結構昔から物の経年変化に、その姿に価値を見出してきたのかもしれない。
しかし、とめどなく進行してゆく劣化を、いったいどこまで見守れば良いのだろうか。『老化』を過度に受け入れることで失うものもあるだろう。老化の果てには必ず『死』が訪れる。汚れや変色したニスを洗い落とすことで得られるものも少なくは無いだろう。そこには洗浄しなければ見られないものもある。そして、それも製作者が作ったものであることに変わりはない。物の老化を受け入れるということは、ある意味そういった可能性を否定していることにはならないか。

製作者の意図と、堆積した歴史のどちらもかけがえなく、同じように大切にしようという考えを私も否定しない。でも、いったいどこで線を引き、立ち入れば良いのか。いつ修復をすれば良いのだろうか。何もかもをいたずらに守ろうとして、何もしなければ、いつか図像は見えなくなり、姿形も朽ち果てる。私たちはそこにも価値を見出すことができるだろうか。

私は手を拱いてはいられない。その命を守り、少なからずの延命ができるように、今考えられる最善と思われる策を講じ、施術をしようと思う。それが修復家の仕事である。
でも、修復を行う『その時』を決めることもとても難しい。修復の着地点、『正解』を見つけることもまた難しい。現代の芸術表現の中には、朽ち果てることを、その経過を看取ることが製作者の意図としている作品さえあり、そういった作品に対しては為す術もない。

とても厄介な文化財修復という仕事である。そして、少し大げさだけれども、それでも、だからこそ、人類にとってとても重要であり、必要な仕事であると私は思っている。

 

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