修復の足跡
私は日々往古より人々が大切にしてきた絵画と対峙する。そこには大抵、遥かな年月を経てきた証として劣化し、痛み、傷ついた姿がある。そして、人々がその絵画を大切に守ってきた証が過去の修理、修復の痕跡である。その絵画が古ければ古いほどに劣化は激しく、損壊は大きく、そこに施された修復の跡も多い。その傷跡も修復跡もまるで地層のように幾重にも積み重ねられている。そこに見えるものは、当時得られる限りの材料と様々な工夫、知恵。修復者が心血を注いだ跡である。
現代の修復家の使命は、対象をいたずらに『元どおり』を求めて直したり、綺麗にすることが主たるものではなく、今ある姿形の維持であり、未来への存続である。それが自然な劣化や経年による変化であるならば、年老いた人と同じように、手厚くもてなし、より良い延命方法を探して、技術者の最善と思う処置に努めることである。それが過去の修復跡であっても、それが今なお良好な跡を現しているのであれば、その修復跡も残すことを考えなければならないのだと思う。私たち修復家がもう二つばかり大切にしなければならないことがあるとすれば、出来るだけ新しいものを加えない、対象の現状から出来るだけ取り除かないということかと思う。私達は、その絵画が今日まで生き延びてきた歴史とその経験の地層をも守り、永らえさせる対象と考えるべきなのではないかと思うのだ。
往古の絵画には少なからず問題があり、残すことによって絵画の延命の妨げとなるものもあるから、それは取り除くべきであろう。しかし、それを取り除けば、絵画が経てきた、往古の人々が与えてきた延命の記録の一部を塗り替えたり取り除くことになる。果たして本当に、確かに取り除いて良いのか、新しい物を加えるべきなのか。それはまた、与えても取り除いても、絵画が数百年の歳月をかけて培ってきた地層に変化を加えることになる。往古の人々の残したしるしに修復家が新たな足跡を残すことになるのである。
私たち修復家の仕事を医師の仕事に例える者がいるが、私たち修復家と医師の仕事の大きな違いは、患者が語らないことである。そこには、今の状態、症状を語る声も、説明する文字もない。ただダンマリを決め込む一枚の絵画である。
それでも私たちは、絵画に語りかけるように寄り添い、時に愛で、これまでの経験と知識を総動員して『患者』の声を聞こうとする。いいや、私自身に語りかけているのだろう。修復の専門家、プロフェッショナルとして、正しい選択は、果たしてそんなものはあるだろうか、それは確かと言えるのだろうか。そんな押し問答を続ける中で、自身が最良と思う着地点を探し、それがたとえ難しくても、なんとかランディングさせなければならない、そんな修復家の仕事なのであろうと思う今日この頃である。私達は明日また絵画の地層を掘り進み、その地層に手を入れ、新しい地層を加えるのだろう。
2025年1月元旦
本年も皆様にとって素晴らしい一年でありますよう!
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