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2025年1月

2025年1月21日 (火)

あらためて劣化や損傷の原因を考える

今回は貴重な美術品や歴史資料の生じる劣化や損傷について少し記しておこうと思う。文化財に生じる劣化や損傷は、大きく二つの要因があって、一つは自然な劣化や脆弱化、腐朽。もう一つは人の利用や手入れにより生じるもの。それらは単独で被害を与える場合もあるし、相互に関係を持ちながら被害を拡大させてゆくこともある。

絵画や彫刻などの芸術作品、古文書や古い絵地図など貴重な歴史資料も、人が年老いるのと同じように時間とともに自然に劣化し、脆弱化し、変色、変質してゆく。これが一つ目の問題である。その進行速度は、使用した材料や構造、作り方によって異なるが、どんなに手厚く保管していても、その進行は通常止まらない。それが利用されているもの、例えば展示利用しなければならないものだとしたら、劣化の進行をより促進させるだろう。野外に置かれたり、たとえ室内に展示されていても、放っておけば光や大気の影響をダイレクトに受け、下述するカビや昆虫による攻撃も免れまい。
ここ最近は、地球温暖化によるものとされる天災も多く、豪雨による洪水や極度の乾燥、暴風による山林火災は、時に多くの文化的な財産を破壊し、消失させてしまう。
気候の変動は自然を背景に、自然環境を糧として生きる動植物の生態系も破壊して変化をもたらしている。世界各地ではある種の昆虫(害虫)が大発生している例もあり、芸術品や歴史的に重要な資料が昆虫の被害を受ける可能性もより大きくなるかもしれない。
過激となった気候のせいで、私たちが使う冷房や暖房の使用は頻繁になり、その使い方もより強力になっているだろう。大気中に、そして紙や布、木で作られている物にもわずかに水分が含まれているが、冷暖房の急速な使い方は、時として文化財から水分を奪い、変形や亀裂を生じさせ、結露すればカビが発生し、これを放置すれば重篤な症状へと至る。とくに天然由来の接着剤(例えば膠/動物の骨や皮から採取したタンパク質 や 正麩糊/小麦澱粉を煮たもの など)を使って作られたものならば、温度や湿度の急激な変化はその劣化を促進させ、剥離や剥落、糊離れを生じさせるのである。

私が祐松堂の工房で取り扱うものは、100年から400年程度の年月を経た絵画やや資料がもっとも多いが、長い年月にわたって利用をされ続けたものには、度重なる接触によって手を触れた部分が汚れ、摩擦によってすり減っている。どんなに丁寧に取り扱っていても、繰り返し、何度も、数百年も取り扱っていれば、弱い部分が折れたり、シワがより、この痕はやがて亀裂や裂傷、断裂と症状を悪化させる。
移動中に誤って高所から落としたり、尖ったもので突いてしまったり、引っ掻いたような傷を負った作品も工房にはよく運び込まれる。
何らかの液体をこぼしてしまったり、飼っているペットの尿をかけられたという作品にもお目にかかった(これは飼い主のしつけによる人災である)。

人の事情(たいていは経済的な理由もしくは放ったらかし)による展示方法、保管環境によっても対象を痛め、劣化させる。長く光に晒している(例えば展示しっぱなしにする)と退色や変色の原因となるし、利用する照明の種類、照度によっては劣化もより促進される。
保管環境が悪ければ、大切にしていた物にカビが生えたり、虫に食われたりもする。これも人的要因(人の都合)に端を発し、自然要因が加わった災害と言えるだろう。
新しい建物の中では、ハウスシック症候群などとして知られているガス(アンモニアやアセトアルデヒドなど=ある種の顔料、絵の具を変色させる)の影響も避けられない。コンクリートで作られた建築物などは、完成後数百日に渡ってアンモニアガスが放出され続けることは、専門家の間では周知の事実である。そもそも大気がひどく汚染されているような地域では、どこにそれを置こうが、密閉でもしない限り悪影響を避けられない。
防虫剤の利用も作品に被害を与える場合があるから、異種の防虫剤を合わせて利用してはならないし、できることならば直接的な使い方はしない方が良いと私は思う。まずは害虫が侵入しないような安全な場所に保管し、良質な箱やケース(高度に密閉されたケース、容器の中にも直接防虫剤入れない方が良い)にしまうか、利用する場合は必ず作品を紙や布でくるんで、間接的に防虫効果を与える様にしたい。
戦争やテロリズムによる破壊も人災であろう。海外でも、日本国内でも第二次世界大戦下で消失した文化財は多い。

さらに言うならば、修理、修復による損壊もある。作品や資料に与える影響を知らずに、安価であったり、利用のしやすさやから使用してしまい、早ければ数年後に変色や変質を来し、再修復が必要となる例も多い。便利だから使われたのであろう、市販のセロテープや紙テープによる補修(決して行ってはならない)例は後を絶たない。色が欠けたところに色を補完しようとして、健常な部分にまで絵の具を塗ってしまった例もとても多い。塗った絵の具は後日除去できなくなることが多い。
修理、修復という行為は、たとえ良法、良策と思われる処置を施したとしても、処置対象を現状から変化させることを避けられない。もちろん、対象を痛め、劣化や損傷を助長する要素は出来るだけ取り除くべくだろうし、必要に応じて保護や補強のために新たな材料を加える必要もある。修復を悪だとは決して言わないが、貴重な芸術品や歴史資料の修復に携わる者は、私たちが修復という治療する一方で、そこに変化を与える者であることを自覚しなければならない。そしてまた、私たちが加えた材料は劣化し、損傷するのである。その要素を対象の歴史に新しく加える修復家の処置なのである。
装飾や装飾による影響も多い。不良な材料、例えばベニヤ板や酸性のペーパーマット、色落ちするような材料を使ってような装幀は、後日必ず作品を変色させ、変質させ、時に重篤な症状へと至らしめる。私はベニヤ板で作られた額に固定された作品が変色、変質した例を数多見てきた。貴重な作品や資料の装幀に際してはぜひ専門家と相談のうえ、必ず安全な材料を使って欲しい。

 

2025年1月 6日 (月)

豊国との再会

歌川豊国は江戸時代(明和6年/1769年~文政8年/1825)に活躍した浮世絵師で、役者絵や美人画で大きな人気を博した人物である。私はこれまでに何度か、豊国の浮世絵版画の修復をした経験があるが、かつての浮世絵の蒐集家の中には、作品を束ねて本にして保管している例も多かった。当時の浮世絵は現代で言うところの人気の俳優、歌手、スポーツ選手などのブロマイド(ハガキ大にプリントされた写真)のようなもので、今ならば、集めたものをクリアフォルダーか何かに収めたような感じと言って良いだろうか。製本するとたくさんの作品をひとまとめにすることもでき、手にとって一度に多くの作品を眺めることもできる。製本にすると、鑑賞に利用しないときには閉じられて、作品が外界から遮断されるため、閉じられている間は汚れたり、光による変色、退色からも免れる。浮世絵を本に装幀をする場合は、作品に裏打ちをするか、背中合わせに(背面どうし)貼り合わせて1ページとし、長辺の片方を糸綴じするか糊付けして束ね、染めた和紙などで作った表紙を取り付ける。

浮世絵を本のように束ねると、一度にたくさんの作品を鑑賞することができる。管理するのも便利だし、さらに作品が保護されるメリットもあるし、今日までに長い間、多くの作品が散逸せずに残されたことを考えれば、実はとても良い装幀方法であったと考えることも出来ようが、今日ではこの装幀様式が好まれず、また忌み嫌われる傾向が強い。その理由はいくつかあるのだけれど、まず、作品を裏打ちすることが問題で、浮世絵の絵の具は展色材(接着剤)が入っていないため水に溶けやすく、水分を多く含んだ糊で裏打ちすると絵の具が溶け出し、滲んだり、裏打ち紙に吸収される。作品を背中どうし糊付けするなど以ての外で、お互いの絵の具を双方に移動させ、美しい色、図柄を台無しにしてしまうのだ。
浮世絵には必ず絵画の周囲に余白が設けられ、ここに擦り元の情報などが印刷されてあるため、資料価値が高いのだが、当時の人には無用なものと思ったのか、製本する際にはこの部分を全て切り取ってしまう例も多い。
浮世絵の研究が進んだ昨今では、バレン(摺り、印刷の際に版木の上に乗せた紙をこすって圧をかけ、版木に塗布した絵の具を紙へ転写させるための道具)の跡が残る裏面が観察できるということも重要で、専門家にとっては背面が覆われてしまう製本は論外なのである。

実際に私も、随分と前のことになるけれど、数百枚の浮世絵を和綴じにした本を何度か目にしており、これを解装して裏打ちを剥がし取り、もとの一枚の作品に戻す作業を何度かした経験がある(https://nyushodo.com/report002.html)。そして最近、久々に、製本された多数の豊国の浮世絵版画作品が私の工房に持ち込まれた。この作品の装幀は『帖』(【じょう】折り本、折り手本のこと)と呼ばれる装幀がされており、作品は先述のように周囲の余白を裁断して整え、裏打ちし、長辺どうしを糊付けして横に繋げたのち、蛇腹帖に折りたたみ、厚紙に牡丹の花を印刷した美しい表紙が取り付けられていた。

今回預かったこの作品は、経年劣化によって作品の接合部や表紙の取り付け部分が剥がれ、一部は分離した状態となってしまったことから修復を依頼された。近年の保存修復のトレンドからすると、解装によって作品一枚一枚を分離することが望まれるが、今回は製本されたその姿形自体を貴重なものとして取り扱われており、現在の装幀を変えることなく、部分的、応急的な修復処置が求められた。

私はこの修復の指針、希望を、一修復家として少し嬉しく思った。この製本をした人は、浮世絵が水分に弱いという弱点を知っていたか、実に巧妙に裏打ちされ、絵の具が滲んだり、裏打ち紙に吸収されることもごく最小限に抑えられており、なかなか腕の立つ職人が装幀したのだろう。
今日においては伝統的な過去の装幀もまた、残しかた、その方法論を構築すべきであると思う。浮世絵の製本というのも、ある一つの文化的、歴史的に大きな意味と価値ある人の生み出した創造物である。

2025年1月 1日 (水)

修復の足跡

私は日々往古より人々が大切にしてきた絵画と対峙する。そこには大抵、遥かな年月を経てきた証として劣化し、痛み、傷ついた姿がある。そして、人々がその絵画を大切に守ってきた証が過去の修理、修復の痕跡である。その絵画が古ければ古いほどに劣化は激しく、損壊は大きく、そこに施された修復の跡も多い。その傷跡も修復跡もまるで地層のように幾重にも積み重ねられている。そこに見えるものは、当時得られる限りの材料と様々な工夫、知恵。修復者が心血を注いだ跡である。

現代の修復家の使命は、対象をいたずらに『元どおり』を求めて直したり、綺麗にすることが主たるものではなく、今ある姿形の維持であり、未来への存続である。それが自然な劣化や経年による変化であるならば、年老いた人と同じように、手厚くもてなし、より良い延命方法を探して、技術者の最善と思う処置に努めることである。それが過去の修復跡であっても、今なお良好な跡を現しているのであれば、その修復跡も残すことを考えなければならないのだと思う。私たち修復家がもう二つばかり大切にしなければならないことがあるとすれば、出来るだけ新しいものを加えない、対象の現状から出来るだけ取り除かないということかと思う。私達は、その絵画が今日まで生き延びてきた歴史とその経験の地層をも守り、永らえさせる対象と考えるべきなのではないかと思うのだ。

往古の絵画には少なからず問題があり、残すことによって絵画の延命の妨げとなるものもあるから、それは取り除くべきであろう。しかし、それを取り除けば、絵画が経てきた、往古の人々が与えてきた延命の記録の一部を塗り替えたり取り除くことになる。果たして本当に、確かに取り除いて良いのか、新しい物を加えるべきなのか。それはまた、与えても取り除いても、絵画が数百年の歳月をかけて培ってきた地層に変化を加えることになる。往古の人々の残したしるしに修復家が新たな足跡を残すことになるのである。

私たち修復家の仕事を医師の仕事に例える者がいるが、私たち修復家と医師の仕事の大きな違いは、患者が語らないことである。そこには、今の状態、症状を語る声も、説明する文字もない。ただダンマリを決め込む一枚の絵画である。
それでも私たちは、絵画に語りかけるように寄り添い、時に愛でるように丁寧に観察し、これまでの経験と知識を総動員して『患者』の声を聞こうとする。いいや、私自身に語りかけているのだろう。修復の専門家、プロフェッショナルとして、正しい選択は、果たしてそんなものはあるだろうか、それは確かと言えるのだろうか。そんな押し問答を続ける中で、自身が最良と思う着地点を探し、それがたとえ難しくても、なんとかランディングさせなければならない、そんな修復家の仕事なのであろうと思う今日この頃である。私達は明日また絵画の地層を掘り進み、その地層に手を入れ、新しい地層を加えるのだろう。

2025年1月元旦

本年も皆様にとって素晴らしい一年でありますよう!

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