あらためて劣化や損傷の原因を考える
今回は貴重な美術品や歴史資料の生じる劣化や損傷について少し記しておこうと思う。文化財に生じる劣化や損傷は、大きく二つの要因があって、一つは自然な劣化や脆弱化、腐朽。もう一つは人の利用や手入れにより生じるもの。それらは単独で被害を与える場合もあるし、相互に関係を持ちながら被害を拡大させてゆくこともある。
絵画や彫刻などの芸術作品、古文書や古い絵地図など貴重な歴史資料も、人が年老いるのと同じように時間とともに自然に劣化し、脆弱化し、変色、変質してゆく。これが一つ目の問題である。その進行速度は、使用した材料や構造、作り方によって異なるが、どんなに手厚く保管していても、その進行は通常止まらない。それが利用されているもの、例えば展示利用しなければならないものだとしたら、劣化の進行をより促進させるだろう。野外に置かれたり、たとえ室内に展示されていても、放っておけば光や大気の影響をダイレクトに受け、下述するカビや昆虫による攻撃も免れまい。
ここ最近は、地球温暖化によるものとされる天災も多く、豪雨による洪水や極度の乾燥、暴風による山林火災は、時に多くの文化的な財産を破壊し、消失させてしまう。気候の変動は自然を背景に、自然環境を糧として生きる動植物の生態系も破壊して変化をもたらしている。世界各地ではある種の昆虫(害虫)が大発生している例もあり、芸術品や歴史的に重要な資料が昆虫の被害を受ける可能性もより大きくなるかもしれない。
過激となった気候のせいで、私たちが使う冷房や暖房の使用は頻繁になり、その使い方もより強力になっているだろう。大気中に、そして紙や布、木で作られている物にもわずかに水分が含まれているが、冷暖房の急速な使い方は、時として文化財から水分を奪い、変形や亀裂を生じさせ、結露すればカビが発生し、これを放置すれば重篤な症状へと至る。とくに天然由来の接着剤(例えば膠/動物の骨や皮から採取したタンパク質 や 正麩糊/小麦澱粉を煮たもの など)を使って作られたものならば、温度や湿度の急激な変化はその劣化を促進させ、剥離や剥落、糊離れを生じさせるのである。
私が祐松堂の工房で取り扱うものは、100年から400年程度の年月を経た絵画やや資料がもっとも多いが、長い年月にわたって利用をされ続けたものには、度重なる接触によって手を触れた部分が汚れ、摩擦によってすり減っている。どんなに丁寧に取り扱っていても、繰り返し、何度も、数百年も取り扱っていれば、弱い部分が折れたり、シワがより、この痕はやがて亀裂や裂傷、断裂と症状を悪化させる。
移動中に誤って高所から落としたり、尖ったもので突いてしまったり、引っ掻いたような傷を負った作品も工房にはよく運び込まれる。
何らかの液体をこぼしてしまったり、飼っているペットの尿をかけられたという作品にもお目にかかった(これは飼い主のしつけによる人災である)。
人の事情(たいていは経済的な理由もしくは放ったらかし)による展示方法、保管環境によっても対象を痛め、劣化させる。長く光に晒している(例えば展示しっぱなしにする)と退色や変色の原因となるし、利用する照明の種類、照度によっては劣化もより促進される。
保管環境が悪ければ、大切にしていた物にカビが生えたり、虫に食われたりもする。これも人的要因(人の都合)に端を発し、自然要因が加わった災害と言えるだろう。
新しい建物の中では、ハウスシック症候群などとして知られているガス(アンモニアやアセトアルデヒドなど=ある種の顔料、絵の具を変色させる)の影響も避けられない。コンクリートで作られた建築物などは、完成後数百日に渡ってアンモニアガスが放出され続けることは、専門家の間では周知の事実である。そもそも大気がひどく汚染されているような地域では、どこにそれを置こうが、密閉でもしない限り悪影響を避けられない。
防虫剤の利用も作品に被害を与える場合があるから、異種の防虫剤を合わせて利用してはならないし、できることならば直接的な使い方はしない方が良いと私は思う。まずは害虫が侵入しないような安全な場所に保管し、良質な箱やケース(高度に密閉されたケース、容器の中にも直接防虫剤入れない方が良い)にしまうか、利用する場合は必ず作品を紙や布でくるんで、間接的に防虫効果を与える様にしたい。
戦争やテロリズムによる破壊も人災であろう。海外でも、日本国内でも第二次世界大戦下で消失した文化財は多い。
さらに言うならば、修理、修復による損壊もある。作品や資料に与える影響を知らずに、安価であったり、利用のしやすさやから使用してしまい、早ければ数年後に変色や変質を来し、再修復が必要となる例も多い。便利だから使われたのであろう、市販のセロテープや紙テープによる補修(決して行ってはならない)例は後を絶たない。色が欠けたところに色を補完しようとして、健常な部分にまで絵の具を塗ってしまった例もとても多い。塗った絵の具は後日除去できなくなることが多い。
修理、修復という行為は、たとえ良法、良策と思われる処置を施したとしても、処置対象を現状から変化させることを避けられない。もちろん、対象を痛め、劣化や損傷を助長する要素は出来るだけ取り除くべくだろうし、必要に応じて保護や補強のために新たな材料を加える必要もある。修復を悪だとは決して言わないが、貴重な芸術品や歴史資料の修復に携わる者は、私たちが修復という治療する一方で、そこに変化を与える者であることを自覚しなければならない。そしてまた、私たちが加えた材料は劣化し、損傷するのである。その要素を対象の歴史に新しく加える修復家の処置なのである。
装飾や装飾による影響も多い。不良な材料、例えばベニヤ板や酸性のペーパーマット、色落ちするような材料を使ってような装幀は、後日必ず作品を変色させ、変質させ、時に重篤な症状へと至らしめる。私はベニヤ板で作られた額に固定された作品が変色、変質した例を数多見てきた。貴重な作品や資料の装幀に際してはぜひ専門家と相談のうえ、必ず安全な材料を使って欲しい。