人の観たもの創るモノ
人の観たものは、それがたとえ全く同じものであったとしても、それを観た人の数だけ、微妙に、ときに大きく肉付け、変容され、異なるモノと変化されてしまう。人がものを観るという行為は、単純に何かを肉眼で捉えるのではなく、捉えた映像、画像をおよそ無意識のうちに脳、精神のフィルター にかけているのだ。私たちは常に目にしたものを体内(脳内)で分析、処理、 変換しており、それをして観たと解釈をし、納得している。人は見たものや聞いたもの、経験したことの全てを、そのままにしておくことはできないのかもしれない、、、。
きっと今でも、多くの人が確かにこの世界を映し出すと思っていたであろうカメラも、レンズの性能や写真プリントを作成するために必要なフィルム、印画紙の特性によって、また 現像者の能力や意図によっていくらでも画像、画質が変わってしまう。今やおよそのスタンダードとなったデジタルカメラやスマートフォン付属のカメラは、採取した光の情報、映像を瞬時に1 と0の信号に変えてしまう。この1と0のデジタル信号は、一見して正確無比で、人の意思が介在していないと思われるかもしれないが、カメラやスマートフォンの中では、各メーカーのプログラムによって採取した情報が処理され、できあがる画像はアレンジされ、スマートフォンなどで撮った画像は結構な味付けが施さている(だからあんな小さなレンズで撮った画像もきれいに写ったように見える=見せている)。 こうやって観てゆくと、確かにこの世界を写したり、捉えることなんて出来るのだろうかと思えてくる。私たちの世界は、人の頭脳、精神の産物、その創造物であふれている。
わたしは絵画や芸術作品を見るのが好きである。その対象は洋の東西を問わず、古典的な具 象画から、色鮮やかな印象派の作品、子供のいたずら書きか、ちょっと歪んだようなピカソの作品、ひたすら絵の具を垂らしまくったポロックの抽象的作品も、はては最近のインスタレーションのようなモノも含めて、自由で闊達な芸術の世界に触れること、対峙することが楽しい。なんと豊かで多様な世界だろうかと思う。
抽象などと呼ばれる作品をを見ると、なんだかわからないと敬遠する人がいるけれど、それも同じ人間の創造物。そんな解りにくい、解らないと思われるようなものこそ、複雑 でちょっと奇妙でさえある人の頭脳、精神が色濃く反映しているのではないだろうか。だから芸術の世界はとてもおもしろいのだと思う。
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