オリジナリティはどこにあるのか
文化財の保存や修復に携わるものは、よく『オリジナリティー』という言葉を使う。かくいう私自身も、自分の運営するインターネットサイトでよく使っている言葉でもある。オリジナリティーとは、元々は最初のものという意味で、独自のものとして、何かに加工される前の元とか、例えば複製品に対しても使う言葉であるという。
太古の昔の話。アマゾンの奥地あたりに散在する集落では、互いの集落へ訪問する際に、自分たちで作った焼き物(器)を土産物として持参した。それは訪ねた集落の長に手渡されるのだが、なんと長はそれを割ってしまい、その破片を集落に住む人々に分け与えるという習慣があったそうである。そこで贈与される焼き物は、破壊される(分割される)ことを前提として作られ、壊された破片を民に分け与えられることによって価値、意味が成り立っていたのだ。
太古に製作された土器やその破片は日本国内のあちこちで出土されている。私の住む町の近くでも、縄文時代の住居跡が見つかっており、近隣の博物館では出土した土器の破片を寄せ集めて復元した土器が飾られている。
私の古い友人はかつて考古学を勉強していて、彼のところに遊びに行くと、出土した土器の破片や綺麗に成形された鏃を片手にいろいろな話をしてくれた。土器の破片に刻まれた模様を手繰ってゆくと、途切れたその先が見たくなる。一体、元はどんな文様だったのか、かつてこの器の形はどんなものだったのか知りたくなってくる。集められた破片を一つ一つつぶさに調べ、つなぎ合わせておよそ完形となる作業を見たときには、感動さえ覚えた。
それから数十年を経て、今あの時のことを思い出すと、果たしてあの修復作業のような行為は正しかったのだろうかなどと考える。元の姿形に戻してしまえば、割れた元の状態は無くなってしまう。もし、割れた状態に歴史的な意味があり、ある完成形であるとするならば(完形という状態が過程に過ぎなかったのならば)、完形に戻すことはオリジナリティーの保護に反する行為となるだろう。
人が作った物の中には、人や時を経て姿形を変えて良しとするものもある。日本の茶道においては『侘び寂び』などと言った美意識があり、使い古した道具、欠けたりヒビの入った器に価値を見出そうとする姿勢がある。これは、かのチェザーレ・ブランディのいう人と時の介在(その事実)を保存の対象として視野に入れようとする姿勢に近しいのではないだろうか。
でも、こういった考え方はオリジナリティーのありかをどこか不明瞭にし、私たちのような修復家やそれを保存管理する人々を惑わせ悩ませる。
オリジナリティーはどこにあるのか。それは守るべきものか。
国際シンポジウム『未完の修復』に参加して
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