修復と言う名の支配
3月24日に東京芸術大学で開催された国際シンポジウム、『未完の修復』で登壇された文化人類学者の古谷嘉章さんは、アマゾンの奥地で発掘される土器の話をされる中で、出土された土器が近隣の人々が使う水瓶になったり、お土産として売る複製品の元になったりするという話をされていたのが印象深かった。彼の話の中で一番気にかかったのが、考古学が発達すると『考古学がそれを支配するようになる』という発言であった。
考古学者が埋蔵していた土器を発掘した瞬間から、それは埋蔵文化財、歴史資料となり、調査、研究の対象となる、土器の断片は詳しく調べられて、制作当初の姿形を追求して関係に復元されたり、博物館に持ち込まれればガラスケースの中に入れられた展示物となる。そうなってしまっては、もはや地元の人が再利用することもお土産品の元として扱うことさえできなくなる、、、。
私は個人を始め、大学の研究機関や公共の美術館、博物館、資料館など、様々な人、環境に置かれ、利用されている美術品や歴史資料の修復を長く行ってきたのだけれど、預かる作品や資料の修復に求められるイメージはそれぞれに皆異なった。私たちのような修復家は、よく『オリジナリティー』を守ろうとか、大切にしようというけれど、このオリジナリティーというのも解釈の幅があり、そのイメージは人の経験や学習、価値観によって揺れ動き、製作後にはるかな時を経てきた物であれば、オリジナルな状態、元の状態、その時点を特定することも難しい。
一方、私たち修復家といえば、壊れた物や劣化した物を巧妙に取り繕うことはできたとしても、それは修復という技術の下に損傷や劣化を見え難くすることがせいぜいで、実際には、物に刻まれた過去の経験や履歴の地層のようなものを部分的に取り除いたり、覆い隠してしまったりすることである。 私たち人間は、タイムマシーンでも持たない限り、実際には痛んだり老朽化した物を元の状態に戻すことはできないのだが、それをして修復という。
私たちがオリジナリティーと呼ぶものは、物の一部を捉えたり、示しているところはあるかもしれないけれど、実は多くの部分で、私たちが心象に作り出す、その理想像であったり、自らの経験や価値観が捉えたイメージとなってはいないだろうか。
そして、修復するということは、それを守り、残そうとする、そうしたいと願う人々の大切にするそのイメージこそ確保し、それこそを永らえさせようとすることが望まれる、人の意図的、恣意的な行為なのではないだろうか。
それは本当にオリジナル、オリジナリティーと呼ぶことができるのだろうか。
私たちのイメージの元に物を支配するということには繋がらないか。