言語学者であったフェルディナン・ド・ソシュールは、『人は生まれた瞬間から言葉の網にとらわれる』というようなことを言った。私たち人間は、言葉がなければ他者と通じ合うことも難しいし、この世の全てを知覚する瞬間に(その行為自体が)、頭の中では言葉化されている。私たち人間が様々な事象に思いを巡らし、思考することができるのも、言葉というものがあるからに違いない。
美術館に展示されている絵画のもとには、学芸員や研究者が言葉を駆使して、その絵画のなんたるかを説明した文章が添えられることがある。さらにはその作家の生まれ育った経緯や、その作品が描かれた当時の社会背景までが記されていることもある。その作品にまつわる様々な情報を鑑賞者に提供し、絵画作品をよりわかりやすく、深く理解するためにと、彼らの言葉にはそんな思いが込められている。彼らの集めた情報や絵画の解釈は、一鑑賞者としても、私たちのような専門家にとっても有益なものばかりではある。
しかし、情報を得てから絵画を鑑賞する場合と、それを得ないまま鑑賞した場合では、鑑賞者がその絵画から得る印象も変わってくるだろう。絵画には画家自らが与えた題名がついているものがあり、この題名も、同じように作品の鑑賞に影響を与える。もちろん、作者自身がつけた題名ならば、当人の思想が反映されたものとして、たとえそれが理解への誘導であったとしても、どこか腑に落ちるだろうが、『言葉ではない』画家の思考や思想が反映した絵画を、他者はどうすれば忠実に言語化できるのだろうか。
世界的に有名な絵画の中には、数多の研究者が言葉を尽くした多くの言説が残されている。けれど絵画というものは、他者の目に触れた瞬間から、鑑賞者にはまた様々な印象を与えるものである。絵画には、言葉ではないからこそ、鑑賞者もまた自由に観て思考を巡らせることができる『余地』のようなものがあると思う。それはたとえ、宗教の教義を示すものであったとしても、信仰の対象であったとしても、それを知らぬ者は、あまたある絵画と同様に向き合い、何らかの印象なり、感想を持つだろう。鑑賞者が画家や識者の意図しない、予想打にもしなかった印象、感想を得たとしても、それを何人たりとも否定できるものではなく、それもまた絵画たればこそである(たとえば、信仰の対象であったイコンや仏画も、教会や寺社より外に出され、美術館や博物館の中に置かれると、途端に美術品となることを多くの人は知っているだろう)。
そもそも、絵画には正しい解釈や理解というものがあるのだろうか。はたまた、画家、製作者以外の人間が確かに絵画を理解することなどできるのだろうか。言い方を変えれば、いったい、私たちは何を持って絵画を理解出来たということになるのだろうか。
昔、知り合ったある画家は、作品を仕上げるたびに、その絵画の制作意図からはじまり、どこでどんな状況、心境で描いたか事細かく話していた。大変お世話になったので、展覧会の初日にはいつも会場に足を運んだのだが、その際も来場者を捕まえては、くだんの説明を熱心にしていたことをよく覚えている。そして、私はこの時から、いったい絵画とはなんなのであろうかと、ずっと思考を繰り返している。
私たちは確かに言葉に捕らえられている(そう思う)。言葉なしには物事を考えることもできないし、もちろん芸術作品を創造するなんてこともできないだろう。けれど、絵画は言葉ではない。もし、言葉を表現したいならば、文字で表せば事足りる足りるだろうし、鑑賞者に識字能力さえあれば、絵画などよりずっと容易に、確かに理解することができる。けれどそれをしない画家は、自らの頭脳、心象中に生まれ出る何かを表現(体の外にものとしてアウトプット)しようとして、それが言葉では表現できないから、絵の具や画用紙、キャンバスを使って絵を描くのではないだろうか。絵画とは、言葉の網を突き破って生まれ出されたものなのではないだろうか。はたして、私たちはそれを確かな言葉に置き換えることができるのだろうか。さらに乱暴に言ってしまうと、それを言葉に置き換えるという行為が、その絵画を理解するということなのであろうか。
昨年は巨大な絵画を修復した。修復に与えられた時間に限りもあり、およそ応急的な処置となったが、それでも数十日間の長い時間集中して間近に作品と向き合い、この手で触れているうちに、画家が製作に費やした濃密な時を追体験しているような感覚を持った。たとえそれが錯覚であったとしても、そんな錯覚が得られたことを一人の修復家として幸せに思っている。