好きこそ物の上手なれ
少し前に、作曲家、ミュージシャンの坂本龍一さん(1980年代にイエローマジックオーケストラで活躍。私もよく聞いた)の新聞記事(朝日新聞インターネット版)が目に止まった。彼いわく、『音楽の 感動 というのは、基本的に個人個人の誤解だと思う。理解は誤解。 感動 す るかしないかは、勝手なことで。ある時にある音楽と出会って気持ちが和んでも、同じ曲 を別の時に聞いて気持ちが動かないことはある。音楽に何か力があるのではない。』と。
音楽というのは音符という記号を作曲家が好きなように並べて、それを楽器や歌手によって音として表現しただけのもので、それを聞いてどう思うか、その受け取り方は、時代、社会、文化背景の違いや、言語の違いによって、人の経験によって、あるいは耳にした時のシュチュエーションによっても左右されて、人の精神の中で様々に変容するものであると思う。『音楽は世界を超える共通の言語である』などと言う人がいるようだが、実際には全ての人に同じ感動を与えることはできないし、理解を得ることも難しいと思う。そもそも、人は自分が気になったり、好きだと思ったものにしか関心を持たないし、興味も湧かぬものである。
ちょっと無理やり、音符という記号も『材料』と考えれば、音楽はそれを組み合わせただけの物、他の芸術表現を見てみると、絵画は動植物から作り出した織物や紙に色(絵の具)を加えただけの物。彫刻は自然に生えている木を切り倒し、木材にして組み合わせ、切り刻んだ物。あるいは粘性のある土を固めた物でしかない。それぞれに特異な色や形態を持ってはいるが、それらを『ある材料、素材を組み合わせただけのもの』と捉えるならば、私たち人間が作り出した芸術作品は皆おしなべて単純で無味乾燥なものに見える。
坂本さんは『それ(作曲、音楽活動)が好きだからやっているだけ』と言っていたけれど、私はこの『好き』という心の有り様が、精神の中に生み出されるこの動揺や衝動の様なものこそが、私たち人間にとって最も大切で、重要なものなのではないかと思う。
この世界において、私たちが生存するためだけならば、それこそ食物として摂取でもできない限り何の意味もない物に、何らかの価値を見出して、わざわざ手塩をかけて、苦心惨憺して組み合わせて何かを作り出そうとする様な人の行動は、この『好き』という感情がなければ成し得ることはできなかっただろう。そして見知らぬ誰かが作りあげた創造物に、高い評価や価値を与える行為もまた、同じように人の『好き』によってなされるのではないだろうか。
『好きこそ物の上手なれ』などという諺もあるけれど、『好き』こそが私たちの世界を彩り豊かにして来たのだ。
それとも、これも私の『誤解』だろうか。
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