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2010年7月

2010年7月24日 (土)

アール・ブリュット

私の友人のご子息は、父親の影響もあってか、いつか絵を描くととに目覚め、それから毎日のように、今も絵を描き続けている。あるとき、ご自宅で見せていただいた映像は、ただ黙々と画洋紙に向かい、何枚も何枚も描き続ける彼の姿だった。いつも使っている机には、画用紙からはみ出した絵の具やクレヨンのあとが幾重にも重なっていて、使い尽くして小さくなったゴミ袋一杯のクレヨンは、彼の表現の軌跡と、創造力の大きさ、激しさを物語っているようだった、、、。
フランスの画家ジャン・デュビュッフェは、当時誰もが芸術家としては認めなかっただろう社会からの脱落者や排斥者、精神病院や監獄などに収監された人々が制作した作品を収集し、これを『アール・ブリュット』と名付けた。アールはフランス語で芸術。ブリュットという言葉は『自然のままの』とか『生まれたままの』という意味。正式な美術教育を受けず、伝統や既成の芸術概念にとらわれることのない彼らの表現は、私たち人間の創造力の源をたどるものとして、あるいは原初の芸術表現として捉えられることもある。
私には表現者の心の中を知ることはかなわないが、描かれた作品の数々に、私たち健常者に勝るとも劣らぬ創造力の強さと、豊かな表現、健常な芸術家をも凌駕する激しい情熱さえ感じて、心を揺さぶられるばかりだ。


●『イノセンス』ーいのちに向き合うアートー
2010年7月17日土曜日~9月20日月曜日(祝日)
於:栃木県立美術館
URL : http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/jp/exhibition/t100717/index.html
Tel : 028-621-3566

●秋山俊也個展『ドローイング10000点展』
2010年7月14日水曜日~8月1日日曜日
於:蔵のギャラリー悠日
URL : http://www.vuiitsu.com/
Tel : 028-633-6285

2010年7月15日 (木)

記号と価値と芸術と

特定の意味や価値が与えられた文字や図像を私達は『記号』【きごう】と呼んでいる。日常、身の回りを見渡せば、漢字や数字、アルファベットにはじまって、音符、モールス信号(今はもう使わない?)、道路標識、地図記号など、けっこうな種類と量がある。ちょっと前に流行ったダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』は、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品に残された記号を巡るサスペンス(ちなみに”コード”は直訳すると記号となる)。記号には、その存在の意味と価値を確かなものにするために、ある社会や人の集団の中におけるお互いの共通理解、共通認識(あるいは幻想のようなモノでもよい)が必要とされるが、実際にイタリアのレオナルドをはじめ、ヨーロッパ各地で描かれた宗教絵画には、聖書に記述のある物事の象徴や比喩が必ず描かれているので、それらを知らなければ、描かれた神々の物語も教義も読み取ることは出来ない。だから、キリスト教徒の歴史や文化を背景にした(フィクションも多いようだけれど)『ダ・ヴィンチ・コード』は、アメリカやヨーロッパのキリスト教圏でもっとも関心が持たれ、流行ったかと思う。
記号のように、特定の意味を与えられるのはものは、私たちの身振りや手振りの中にもたくさんあって、ボディランゲージと呼ばれるような誰もが知っている仕草、挨拶や服装(ドレスコード)、冠婚葬祭など、様々な儀式における作法のほか、歌舞伎や能、狂言などの芸術表現の中にも、喜怒哀楽を示す踊りや仕草の型があるが、これらも皆同じ様に、事前の相互理解と相互認識があって初めて成立する。
全ての記号は、それ自体では何の意味も持たない、価値もないけれど、私たち人間が価値を与えることで成立する。本来はただの数字や肖像、図像が刻印された金属片が硬貨となり、印刷された紙が紙幣となる事がその最たるものと言ってよいだろうか。それは長く変わらぬ世界、外部と閉ざされた環境と人々のなかにおいては、意味と価値を長く持続することも出来るが、変化する世界の中においては、簡単に意味を失い、消滅さえしてしまう。現在の様に、世界の情報が高速で行き交う世界では、それは日々時に如何様にも解釈され、急速な変化も余儀なくされることだろう。もちろん、新しいモノも産まれているハズ。

Gabriel_3マリアのもとに神の子を授かった事を告げに
舞い降りた大天使ガブリエルは貞操(純潔)
を示す百合の花を持っている。

2010年7月 5日 (月)

捨てる『紙』あれば拾う『紙』あり

毎日大量に印刷、発行される新聞は、一般家庭であれば、ひと月ほどまとめてはチリ紙交換に出すか、適当に捨ててしてしまう事がほとんどかと思う。しかし、この一方で、新聞はどんなものであれ、私たちの日々の生活にまつわる記事や、世界の情報を記した歴史的、文化的資料としての価値も高いので、図書館や公文書館など、公共の諸機関ではながく保存、管理に努めてきた。
それでも新聞の保存は実に厄介である。新聞紙自体、広げれば結構な大きさになるし、毎日、何年も集めていくと、とても大きな保管場所が必要になる。もともと粗悪な材料で出来ているし、薄くて破れやすく、保存性能もとても悪いため、これまでの保管には、主にマイクロフィルムなど(現在ではデジタル機器の応用も進められている)、ほかの便利な記録メディアに情報を写し取る代替方法が取られ、やはり本体は捨ててしまっていたのが事実。
こんな状況、事情の中で、ドイツ(ライプチヒ)では、1997年に特に貴重な新聞をそのまま残す方法を開発した。ウェヒターと言う人が考えたこの方法は、薄い新聞紙の表裏を(紙の厚さの方向に)二つに引き剥がして、間に薄い紙を一枚挟んで接着、補強して保存するもので、現在では作業を機械化し、大量の新聞の処置を進めている。

◎相剝ぎ【あいへぎ】
一枚の紙を表裏二つに裂く方法を日本では『相剝ぎ【あいへぎ】』とよび、かつては、厚くて硬い紙に描かれた作品を掛け軸や巻物にする(巻きやすくする)ため、紙を薄くする技術として利用されたことがあり(現在では破壊行為として見られる)、中には剥がした裏側の紙にしみ込んだ文字や絵に手を加え、複製、偽造の手段として応用した者もいた。組成によって表裏を分離しやすい構造の紙もあるにはあるが、複雑に繊維が絡み合って一枚の紙となった物を、均一に二枚に分離することは不可能だと言っても過言ではないし、大胆?かつ、リスキーな処置と思う。

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