私たちはこの世に一つしかない貴重な文化遺産を取り扱うため、芸術作品や歴史資料の修復に際していくつかの原則を守るようにしている。これらの原則は現在文化財を保護するための最善、最良な方法を示す羅針盤となり、過剰な処置を抑制し、対象の現状をより良く残すためのシステマチックな方法論であると思う。でも、どんな方法論も長く同じよう利用して、いろいろなものに対応させているうちに、様々な問題が浮かび上がってくるものであり、あるいは確かと思って(なんの疑いもなく思い込んで)日頃振り返ることもないこの原則にも、きっと問題点や欠点は潜んでいるように思う。
私たちが大切にしている原則には以下のようなものがある。
1.最小限の介入
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現状の保護策。変化の抑制。現状から出来るだけ取り除かない、加えないこと。作品、資料の現状を限りなく保護、保存するという意味において最良な方法である。 |
2.可逆性
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再現性。修復処置前の状態に戻すことができるようにすること。再修理、過去の修理の再評価に備えることが可能となる。 |
3.判別可能性
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修復箇所が確認できること。処置箇所とオリジナルとの差異化を図ることでオリジナルの現状を確認、区別が可能となる。 |
4.適合性
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近似した材料を使うこと。オリジナルの材料素材と調和を保つこと。材料の質、強度を合わせることで修復対象も安定する。 |
5.記録
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処置前の記録、処置の記録。文化財の保護として安全、重要なな手段。修復も文化財の経歴として記録と修復はセットで行わなれる必要がある。 |
~それぞれの原則における考え方と問題点~
1.最小限の修復について
芸術作品、歴史資料など広く文化財(=人の創造物。以下は国や地方自治体の指定品以外も含めた広義な意味で文化財と記す)の修復において最も重要なことは、その現状をできるだけ維持することであり、その方法論として有効なのが最小限の修復である。それは例えば芸術作品であるならば、画用紙や画布、絵の具といった材料素材への必要かつ最小限の介入であり、少し優しい言葉に変えるならば、たとえ何らかの修復処置を施すとしても、そこからできるだけ取り除かない、できるだけ加えないということになる。
しかし、文化財の保存や管理、取り扱いに長けた所有者、管理者がいる一方、それを良好に取り扱い、安全に保管するに十分な知識や経験を持たない者も少なからずいるし、修復の依頼者が美術館や博物館など公共の施設であっても、展示や保存の環境、設備が十分整っていないような場合は、最小限の修復が良い修復であるということは必ずしも言えない。必要に応じて最小限の修復に加え、強化とか、補強をすることにより、所有者、管理する者の負担を減らし、なお彼らが安心して取り扱うようにすることができるならば、それはそれで文化財の延命につながるはずである。そのさじ加減は難しいが、修復家は彼らの修復に対する要望をよく聞き、理解することを優先して、なお彼らの知識や経験についても触れて、相互の協力によってより良い修復計画を立て、所有者や管理者も納得のできる修復の着地点を見つけ出すことが大切であると思う。こうして『最小限の修復』ということを考えていくと、そのあり方についてはケースバイケースで考えてゆくことこそが最良である。
2.可逆性について
可逆性を確保することは、最小限の修復、介入に次いで重要なことである。これは、将来いつでも現状(これから行う修復以前)に戻すことのできる手段、工夫として有効であり、最小限の修復と共に修復箇所に加える材料、素材の可逆性を確保することによって、よりオリジナル、現状の確保、または回復ができる可能性を担保するものである。しかし、この一方では、可逆性が高いということは剥がれ易いとか、除去しやすいがために、処置箇所、加えた材料素材の耐用年数、寿命は短くなる可能性が否定できず、将来再復は必要であるという前提条件の上で成立するものであり、可逆性を追求してゆくと、再修復が必要となる時期も早まる可能性が生じることも心得ておかなければならないだろう。
3.判別可能性について
文化財の修復は現存する状態を保護することが最大の目的であり、修復のために加える材料と残存する作品との間には適当な差異を図り、つくることにより、現存する製作当初に使われたオリジナルの材料素材(その作品や資料自体を構成するもの、作り出しているもの)の状態(現状)を判別、区別することができるようになる。
しかし、この一方では、大きな差異を作ってしまうと修復処置部が目立ち、視線がとらわれるなどして鑑賞の弊害となったり、材料強度の差が大きければ処置部付近に応力が集中し、二次的な損傷(折れやシワ、波打ち変形など)の発生源ともなりうる可能性がある。
4.適合性について
ここでいう適合性とは、修復のために加える材料がオリジナルの材料素材と大きな違和感なく適度な調和が保てるようにすること。掛け軸や巻物(巻子本)などは利用時に巻いたり、たたんだり、広げたりするため、その際に抵抗なく取り扱えるようにする必要があり、例えば欠損部の補填材料の強度がありすぎたり、あるいは強度が低すぎたりした場合は、同部付近に応力が集中して波打ち変形や折れ皺が生じる(果ては亀裂や破損に至る)など、作品や資料に悪影響を及ぼす可能性がある。天然由来の材料は湿度により敏感に伸縮(膨張~収縮)するため、全体の調和、均一性をはかるためにも材質(材料の密度、硬度など)を近似させる必要もある。
しかし、適合性を追求するほど加えた物がオリジナル材料と一体化して判別可能性は低下する。適合性よりも判別可能性を追求すれば損傷に至ったり、視線が囚われ、スムーズな鑑賞もできなくなる。
上記の3.4については、芸術作品や歴史資料の『潜在的な統一性』(チェザーレ・ブランディ『修復の理論』p35)、の損傷したイメージの回復に貢献、影響をするが、その着地点、どれだけ追求するかを定めることは難しい。数百年も経た画用紙や画布の修復、欠損部の補填には、紫外線(祐松堂では太陽光に長く晒した材料を使用した経験がある)や電子線などで強制的に劣化した材料を使用する試みも行われているが、このような対応については、小さな処置部に対しても、大きな手間と時間、費用がかかることも問題である。
5.記録について
記録するということ、記録を残すということは文化財(広く国や地方自治体における指定品以外も含めて)には直接的、物理的に影響しないという意味において、文化財を変化させることなく、安全に情報を残すことができるという意味で文化財の保護性が高い。
修復の前後の様子、修復中に得た情報を文字化したり画像化したものは、その作品や資料のいわゆる経歴、病歴(カルテ)として、将来の再修復に備えた有効な情報ともなるし、それは所有者や管理者にとっても、今後作品や資料をより安全に、確かに取り扱う上での有効な情報となるだろう。さらにこの文字化、画像化した情報は歴史的な資料としても将来意味あるものとなるかと思う。
記録における大きな問題はそのその保管方法にあると思われる。昨今はデジタル化が進み、デジタル化した情報は利便性に優れていているが、デジタル記録の媒体として使われることの多いCD-ROMやDVD-ROM、レーザーディスクなどにも保存性能には限界はあり、保管方法によっては早期に利用できなくなる恐れがある。加えて、これらの情報を読み取るためのコンピュ-ターのめまぐるしいほどの進化によって、OSなど基本的プログラムやアプリケーションソフトの旧式化が急速に進み、古い情報は早々に陳腐化し、将来的に読み取れなくさえなってしまう可能性がある。記録の保管に大切なことは、クラウドシステムなどにデジタルデーターを残すとともに、利用実績の長い紙媒体などへの印刷を含めて、いくつかの方法を併用して保管することが望ましい。
修復の原則にもよく見れば様々な問題がある。ましてや現代における最新の芸術表現には対応が難しいものもあるかと思われる今日、これらの原則についても見直したり、再考してゆく必要があると私は思う。これから修復家になろうとする者、現在すでに現場で活動している若い世代の修復家、修復師(修復士)の皆さんにはぜひ知ってほしい。考えて欲しいと思う。
参考
田口かおり『保存修復の技法と思想』
チェ-ザレ・ブランディ『修復の理論』